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ペドロ1世の謎が明らかに=皇帝と妻2人の遺骨研究=レオポルジーナの死の真相は?=アメーリアはミイラに

ニッケイ新聞 2013年2月20日

 ブラジル建国の父であるペドロ1世と2人の皇后の遺骨に関する初の科学的調査が行われ、これまでの歴史証言を覆す新たな事実が明らかになった。19日付エスタード紙が報じている。

 2012年2〜9月に考古学者のヴァルジレーネ・ド・カルモ・アンビエル氏やサンパウロ総合大学(USP)医学部のスタッフが、ドン・ペドロ1世と、レオポルジーナ、アメーリアの2皇后の遺骨検証を行い、その結果が18日にUSP考古博物館で発表された。
 イピランガの独立記念碑にはペドロ1世は火葬されたと書かれているが実際には埋葬されており、遺体には肋骨が4本折れた跡があった。これは1823年の落馬と29年の馬車の事故によるもので、これによって左側の肺の機能が弱ったために、右肺が結核にやられ、1834年に病死する原因となった。
 棺の中のメダル5個は全てポルトガルにちなんだもので、ペドロ1世がブラジル帝国ペドロ1世としてではなく、ポルトガル王家のペドロ4世として埋葬されたことも明らかとなった。ペドロ1世は、ポルトガル内戦のために1831年にブラジル皇帝位を息子のペドロ2世に譲ってポルトガルに帰国。内戦勝利後、34年に同国リスボンの宮殿で病死している。
 また、1826年に死亡したレオポルジーナ皇后は夫の暴力が死因との説があり、階段から落ちたか夫に突き落とされたかして大たい骨を骨折したと言われていたが、遺体には骨折の跡がなく、歴史証言に疑問が残されることとなった。
 そして今回最大の驚きとなったのが、アメーリア皇后だ。1876年にリスボンで亡くなって埋葬された亡骸はミイラ化し、皮膚や頭髪、爪、内臓なども残っていた。手には鉄製の十字架を握り黒装束で、ペドロ1世の死後42年間喪に服していたことを伺わせる。
 歴史をたどれば、ナポレオン軍の侵攻を恐れ、1808年に当時植民地だった現在のブラジルのリオに避難してきたポルトガル王朝が、1821年にポルトガル帰還を決めたとき、摂政となったのが当時王太子だったペドロ1世だ。ポルトガルはブラジルの独立を恐れて軍を送って統制を強化したが、植民地に逆戻りすることを不満としたブラジル人はペドロ1世を擁立して独立し、ブラジル帝国が誕生した。
 1822年9月7日にサンパウロ市南部イピランガの丘で「独立か死か」で知られる独立宣言をしたペドロ1世の亡骸は1972年以降、イピランガ独立公園内の聖堂に安置されていた。ここには2皇后の亡骸も葬られており、調査団は3人の亡骸を極秘裏にUSP大学病院に移送。同大学病院では断層映像の撮影なども行った。ブラジルの医療施設が考古学のために使用されたのはこれが初めてだ。
 ヴァルジレーネ氏らは今後、考古学者と文化財保存の専門家、医学者が協力した形のブラジル初の作業に挑み、顔や声帯を含む肉体の再現や遺伝子研究なども行う予定だ。