ニッケイ新聞 2013年3月28日
うずくまる学生の足のつま先を狙って盾を垂直に叩き付けた。数の上では圧倒的に学生の方が優勢だが、訓練を積んだ機動隊の前には学生はあまりにも無力だった。うずくまり、身動きの取れなくなった学生を踏み付けるようにして機動隊は学生を制圧していった。
児玉はどこをどう逃げたのか、機動隊に追われながらも駅から脱出することはできた。児玉は破れた上着を脱ぎ捨てた。自分自身はどこも出血していなかったが、上着には血のりがべっとりと付着していた。そんなものを着ていれば、職務尋問にひっかかるのがおちだ。児玉はなにくわぬ顔をして南口から甲州街道に出た。パトカーや機動隊を乗せた大型バス、救急車、消防車がランプを点滅させサイレンをけたたましく鳴らしたまま待機している。
児玉が笹塚に辿り着いたのは夜が明けた頃だった。
七〇年代初めまでは多くの若者は何かが変わるような期待感を抱いていた。根拠があるわけではなかったが、ただ若い力を結集すればベトナム戦争を止めることができるかもしれない。安保を阻止すれば、アジアに平和が蘇るのではないかという期待があった。しかし、そんなものは一瞬にして消し飛んでしまった。安保条約は呆気なく調印されてしまった。それをまざまざと見せられたのが七〇年安保闘争でもあった。
こうした体験は児玉に限ったことではなく、ロシア語クラスのほとんどの者が何らかの形で七〇年安保に関わっていた。その挫折感を埋めるかのようにある者は文学に、またある者は哲学にのめり込み、それぞれの方法で心の空洞を塞ごうと懸命になっていた。
革マル派の提起する問題に関心がないわけではなかった。しかし、通り一遍のオルグ程度では彼らの気持ちを揺り動かすことはできなかった。教室から革マル派の学生は追い出され出ていった。ロシア語の授業は行われたが熱気を帯びた授業とは言い難いものだった。
授業が終わった後、ロシア語クラスの学生は門から校舎に続く坂、彼らは文学部スロープと呼んでいたが、次の授業を受ける気にもなれずそこでたむろしていた。彼らは折原を囲み、スロープを上り切った左手にある自治会室から革マル派が出てこないか、そればかりを気にしていた。
集会を妨害したと、革マル派から折原は報復される可能性があった。折原を一人にしてしまえば、革マル派は折原を追及し、事実がどうであろうとも、彼を対立セクトの学生に仕立てかねなかった。政治的にレッテル貼りをするというより、彼ら自身が疑心暗鬼に陥り革マル派以外の人間が信じられなくなっていた。折原に対立セクトのレッテルが貼られてしまえば、革マル派につけ狙われて、文学部はおろか他学部の校舎がある本部キャンパスも自由に歩けなくなってしまう。
案の定、偵察に白ヘルを被った学生が出てきた。クラスのほぼ全員が揃っていることを確かめると、白ヘルは自治会室へ戻っていった。
「来るかしら」
小柄だが気の強そうな女性が言った。それが金子幸代だった。
「あなたたち、彼を守ってやりなさいよ」
金子はだれにいうとはなしに言った。彼らはまだ入学したばかりで、お互いの名前さえはっきりと覚えているわけではなかった。
「福岡県出身の折原と言います。革マル派も俺を相手にするほど暇じゃないでしょう。皆、気にしないで授業に出て下さい」
「何をふざけたことを言ってるの。あなたは九州の田舎から出てきたばかりだから革マル派のことを何もわかっていないのよ」金子が諌めるように言った。
「僕らの側にはコソコソしたり逃げたりする理由はないわけだから、このままここで様子を見ることにしよう」
児玉の言葉に数人がスロープに残った。その日を境にして、最後まで折原のそばを離れなかった者が親しく付き合うようになった。
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