ニッケイ新聞 2013年4月5日
22日夜、一行はジョインビレから東に90キロ行った海岸部のイタジャイー市に移動し、レストランで同日伯協会(ANBI、大場レジナ会長)から創立会員の佐藤吾介さん(ごすけ、65、二世、第3アリアンサ)、20年以上同地に住む梅木サチコさん(68、サンパウロ州ポンペイア出身)ら約10人と交流会を行った。
5年前から仕事の関係で同地に住み、3年前から同協会に入会した村中堅悟さん(63、長崎)は、元々はサンパウロ市の日商岩井に20年勤めていた。ニットの産地として有名な同地やブルスケ、ブルメナウにその材料を販売する仕事を独立してやるために移転したという。
佐藤さんによれば協会創立は1987年で、会員数は約100人(40家族)。十周年で会館を建設したが手狭で100人しか入れない。そのため、最終的にレストランが交流会場となった。
水産技術の研究員として80年にフロリアノポリスに来て、84年からこの街へ移転したという佐藤さんは、「20年ほど前までヤクルトがこの町で大きくエビ養殖をしていたな」と思い出す。「80年頃はこの町の日系人は少なくて20人ほどだった。お互いに町でチラッと姿を見るけど面識はなかった。公営市場に店を出している日系人がいて顔が広かったので、彼に呼びかけてもらい集まるようになった。今では、ほとんどの日系人を知っている」と同協会の成り立ちを説明する。
故中野博さんの仲介で千葉県袖ケ浦市と姉妹都市になり、「Sodegaura」と命名された遊歩道もある。
佐藤さんは「月1回は集まる。13年ぐらい前から年1度、スキヤキ会をやるが400人は集まる」という。他に運動会、遠足もしており、昨年はレジストロ、その前はクリチーバの花祭りに行き、親睦を深めている。
同市にはSC州には珍しく植民地もある。関口健次郎さん(76、茨城、コチア青年第1回14期)は58年に来伯後、最初サンパウロ州ピンダモニャンガーバのパトロンのもとで義務農年を終えた後、SC州に移転し、イタジャイーで野菜を作りスーパーへ卸すようになった。
そんな72年、人口が増加して野菜需要が増えたことから、市が移住地造成を計画し、地代10年据え置きの恩典を示して10軒の野菜農家を募集した。そこに関口さんは応募し、他にJICAが南大河州ポルト・アレグレ近郊から日本人農家を呼び、計日系7家族が入植し、あと3家族のブラジル人が入り、リオ・ノーヴォ植民地が始まった。
関口さんは「この町は海際だから海抜4メートルしかない。満潮の時にイタジャイ・アスー川の上流で大雨が降ると、下ってきた大量の雨水が満潮に押し戻されて街の中に溢れる。08年と11年にそんな大洪水がこの地域一帯を襲って、うちの畑は一番被害がひどかった。3日間も水浸しで全滅した…」と苦渋の日々を振り返る。
「あの時、すぐに(日本国在)クリチーバ総領事館から支援を出してくれ、新しい農機具や肥料を買うことができ、すごく助かったよ」という。
関口さんは現在、日本食に欠かせないガリ(生姜の薄切りを酢でしめたもの)の生産に力を入れ、毎年5トンも生産し、近隣の日本食レストランに卸している。隣のカンブリューには10軒、ブルメナウには5軒、ブルスケにも4軒、フロリアノポリスには10軒もあるという。
いま現在、同植民地の日系人は3家族のみ。2年前、東日本大震災が起きた時、「洪水の支援のお返しと思って、コロニアの各農家から1500コントずつ義援金を出した」という。日伯の絆はここにもしっかりと根を張っている。(つづく、深沢正雪記者)