ニッケイ新聞 2013年4月5日
金寿吉は忍耐強い性格で、どんな差別にも耐え忍んできた。しかし、差別されたまま一生を終えていくことに抑えがたい怒りがあったのだろう。帰国を考えるようになったもう一つの理由は、多くの同胞が北へ次々に帰国していったことだ。 北朝鮮への帰国は一九五九年から始まった。朝鮮総連によって北朝鮮は「発展する社会主義祖国」「地上の楽園」と宣伝された。 「日本にいては子供たちの将来も先が見えている。それよりは共和国に帰って一からやり直したほうがまだ賢明だ。一時は苦労するかもしれんが、こんな日本にいるよりはよっぽどましだ」 父親の意見に最初に賛成したのは意外にも容福だった。 「アボジ(お父さん)、祖国へ帰ろう」 日本生まれの長男から祖国という言葉が漏れた。 「おまえもそう思うか」 寿吉がうれしそうに言った。寿吉には社会主義国家がどのようなものか、理解できるほどの知識はなかった。寿吉には「教育も医療も無料、祖国は衣食住すべて保障する」という宣伝文句だけで十分だった。帰国が開始された一九五九年には約三千人だったが、翌一九六〇年には五万人近い人々が北朝鮮に帰国している。そうした帰国熱が寿吉を激しく揺り動かした。 一方、韓国の方は一九六一年に軍事クーデターが起きて朴正煕が政権を握っていた。軍事独裁国家の韓国よりも、北朝鮮を理想的国家として日本のマスコミは報道し、知識人も好意的な姿勢を示していた。日本での極貧生活と民族的差別から解放されたいという寿吉の期待に拍車がかかった。 容福は総連系の民族学校で学んだ経験はなかったが、高校に入学した頃から金日成の著作集を読むようになった。どこで借りてくるのか机の上には「主体思想」に関連する本がいつも数冊積まれていた。しかし、おとなしい性格で金日成の「主体思想」を声高に叫ぶことはなかった。 日本にいても暗澹たる未来しか待ち受けていないことを、容福が最も強く感じていたのかも知れない。東大の医学部に進んだものの差別は日常的だった。 「よく君が日本の国立大学に合格できたね」 平然と言ってくる学生もいたと口惜しそうに漏らしたことがあった。好き好んで差別に満ちた日本で暮らしているわけではない。日本人は日韓併合の歴史的事実をすっかり忘れ去ってしまっているかのようだった。 朝鮮を侵略し、収奪し尽くし、日本国内の労働力が不足すると半ば強制的に炭鉱やダム工事に動員した。強制連行された彼らを待ち受けていたのは筆舌につくしがたい過酷な労働だった。 戦後の在日朝鮮人、韓国人に対する差別は戦前と何ら変わるところはなかった。 「日本が嫌なら自分の国に帰ればいい」 内心では怒りに震えながら、容福は反論もせずに相手に言いたい放題言わせた。挑発に乗らないで無視することだけが彼に残された唯一の抵抗手段だった。そして、彼らよりも優秀な成績を取ることによって、容福は差別に抵抗していたのかもしれない。それは姉の文子にとっても幸代にとっても同じだった。 しかし、容福の忍耐にも限界はあった。屈辱に耐えて医師になったとしても、いったいそのことにどんな意味があるのか。経済的には多少は恵まれるかもしれないが、ただそれだけだ。人間はパンだけでは生きていくことはできない。希望だとか夢だとか、日本人の若者のように容福も懸命にそれを見出だそうと努力していたが、結局何も見出せなかったのだろう。 朝鮮総連が進める祖国帰還運動に心動かされたのは当然の成り行きでもあった。帰国してすぐに北朝鮮の医大に入学できるわけではないが、言葉を完全に獲得すれば、たとえそれが東大以上の難関であっても容福には合格する自信があった。 「医学を学んで祖国の再建に貢献したい」 容福にそう決心させたのは「北朝鮮に帰る」という父親の一言だった。 著者への意見、感想はこちら(takamada@mbd.nifty.com)まで。