ニッケイ新聞 2013年4月6日
日本への失望が大きい分、北朝鮮は眩しく輝いて見えた。容福自身も総連に通い、帰国手続きに関する資料を集め始めた。楽しそうに神奈川県の総連に足を運ぶ容福は祖国に一歩一歩近づいているような気分だったのだろう。
新天地ではすべてが一から始まるのだ。祖国建設に燃え立ち上った同胞が在日を温かく迎えてくれる。容福は日本生まれの二世だが祖国に帰りさえすれば差別から解放されると、信じて疑わなかった。
父から聞く故郷の話は貧しい生活ぶりばかりだった。しかし、それは日本の侵略によって収奪が行われたからだ。共和国は金日成主席のもとに人民が結集して理想国家が着々と建設されている。その輪に加わることが在日二世の使命のように容福は感じていたのだろうか。
長女の文子も兄の影響もあって北朝鮮への帰国に心は傾いていた。文子にとっては北朝鮮がどのような国なのか想像もつかなかった。ただ新天地という言葉の響きに、無条件に心が動かされたようだ。
文子は長い髪をいつも三つ編みにしていた。それが彼女にできる唯一のおしゃれでもあった。中学校の習字の時間に、後ろの席の男子生徒に三つ編みにしていた髪に墨汁をつけられ、白いブラウスにいたずら書きをされた。教師もいたずらをした男子生徒に「静かにしろ」と注意しただけで、それ以上のことは何も言わなかった。
どんな文字を背中に書かれたのか、文子には想像がついたが、涙をみせなかった。泣けばいじめはエスカレートするだけだということを、それまでの体験でいやというほど思い知らされていた。その日一日、文子は髪も洗わず、背中の文字もそのままで通した。
しかし、家に帰り母親の姿を見た瞬間、文子は体を震わせて泣いた。母親は何も言わずにブラウスを脱がせた。着古して黄ばんだブラウスには「チョンコウ」と書かれていた。背中に焼きごてを押されたような痛みに耐えながら、文子は教室で一日を過ごしたのだ。
母親は風呂場で彼女の三つ編みをほどき、髪を洗ってやった。何があったのか、聞かなくてもわかった。文子にとって北朝鮮への帰還は、「チョンコウ」という侮蔑に満ちたこの言葉から解放されることだった。
北朝鮮への帰国に、複雑な思いを抱いたのは母の仁貞だった。彼女の故郷は馬山で、故郷を捨てることに等しかった。 「子供たちはろくに朝鮮語も話せないのに、どうして共和国に帰るなんて言い出すの。苦労は帰っても日本にいても同じことだよ。容福だって東大の医学部に入ったばかりじゃないか。もう少しの辛抱だよ」 仁貞は日本を離れたくなかった。日韓との国交が回復したわけではない。しかし、国交が回復しさえすれば韓国との往来も自由にできるようになる。仁貞の両親はすでに他界していたが兄弟はまだ健在だった。子供たちを連れて北朝鮮に帰る気には、どうしてもなれなかったようだ。 「何を言ってるか。帰国の時期が遅れれば、それだけ出世が遅れるというものだ」 「今、帰国してしまえば故郷の親戚とも会えなくなってしまうのよ」 「俺の両親も年だ。あの朝鮮戦争を逃げ切ることはできなかったろう」 「親が死んでも兄弟は生きているよ。それに親の墓参りだってしなければならないでしょう。墓参りもしないなんて、あんたは何て親不孝なんだ」 「南北朝鮮が統一されたら墓参りだって兄弟に会うことも自由にできるさ。それまでの辛抱だ。俺は日本人に馬鹿にされて生きることにもう耐えられない」
寿吉の言うことももっともだった。しかし、仁貞には日本語しかしらない三人の子供が北朝鮮に帰って直面する言葉の壁や、故郷の家族に会えなくなると思うと、簡単に同意できなかったのだろう。
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