ニッケイ新聞 2013年4月9日
《ブラジルの雪降るというりんごの地》
3月24日(日)午後4時からのサンジョ組合施設の見学にあたり、パラー州のトメアスー移住地から遠路はるばる参加した三宅昭子さん(70、秋田)は、そう詠んだ。
「よその植民地を実際に見て、話をして見たかった。わずか40家族なのにまとまっているところが凄い」と感じたという。さらに「アマゾン80周年(09年)の時にはたくさんの人がトメアスーまで来て下さったのに、忙しくてあまり会えなかった。今回はゆっくり会ってあの時のお礼が言いたかった」と参加した動機を語った。
見学用の白衣、帽子に着替え、まるでアニェンビー国際展示場のように巨大なリンゴ選別棟に入ると、プーンと爽やかなリンゴの香りが鼻をつく。ガイドによれば販売や選果作業に330人が雇用されているという。
それまでリンゴといえば9割が亜国産だった1970年、連邦農務省とSC州政府は国産化を計画した。州農牧公社(EPAGRI)はサンジョアキン試験場を設立すると同時にコチア産組に協力を依頼し、1973年からリンゴ団地造成が始まり、翌年には最初の入植者16戸が400ヘクタールを拓いた。
JICAは1971に同州へリンゴの権威・後沢憲志博士を派遣したのを皮切りに、専門家を続々と送るなどの協力をし、日伯協力の結晶としてリンゴ国産の夢は実現された。元々はコチア産組の単協だったが、94年に同産組が解散したことを受け、当初はサンジョ有限会社、96年から同組合として独立した。
組合員の大半はリンゴ生産者で76組合員おり、うち非日系が4人。経営多角化の関係で、ワイン生産に力を入れており、葡萄やブルーベリーの生産者もいる。
組合紹介ビデオによれば1993年当時、年1万5千トンだった生産は、現在では3万3千トンまで拡大した。圧巻なのは480トンも入る保冷庫(2度)が60室もあることだ。このおかげでほぼ一年を通して出荷することが可能になった。保冷庫内にガスを封入して無酸素にすると数カ月の長期保存に耐えるからだ。その代わり、封を解いたら5日間で売りきる必要がある、とガイドは説明した。
葡萄畑は25ヘクタールあり、ワイン貯蔵庫ではすでに樫の樽に10万本分が眠っている。日本人が当地で生産する数少ないワインだ。すでに国際賞も受賞するなど、渋みの少ないふくよかな味が特徴として知られつつあり、寝かされてさらに深い味わいを増しているに違いない。ブルーベリーも4トン生産され、ジャムやジュースに加工されている。移住地、政府、JICAが三位一体で取り組んできただけあり、実に立派な施設だ。
その日の晩8時頃からサンジョアキン文化体育協会の体育館で交流会が行われ、婦人や青年が総出で焼きそばを振舞った。降旗キヨシ会長(51、二世)は61家族が会員で、加入していない日系人は3、4家族しかいないというから、ほぼ全員といえる高い加入率だ。
組合と文協には直接の関係はないが、会員の大半はリンゴ生産者だ。年に4、5回も焼きそば祭りをし、各300皿を売るという。他には運動会、父の日、母の日、新年会も行う。9月には花見もあり、施設内に植えられた100本ほどの桜の下に持ち寄りで100人ほどが集まる。
ジョインビレ同様に百周年後に和太鼓集団が町にできたが、降旗会長は「みんな非日系ばかり。日系人は興味がない」と苦笑いする。
さらに深く訊ねると「働き盛りの年代は仕事で、それどころじゃない。太鼓をやるような10代、20代の若い日系人は、大学とかでフロリアポリスやクリチーバ、サンパウロ市に出てしまっていて少ない」というのも原因のようだ。(つづく、深沢正雪記者)