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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第49回

ニッケイ新聞 2013年4月9日

「思いついたように帰らなくても、祖国が統一されてから帰ったっていいでしょう。あと一年すれば幸代も小学校を卒業する。それからだって遅くはないよ」
「帰ると言ったら帰るんだ。一日も早い方が子供のためだ」
 しかし、仁貞は最後まで帰国に同意しなかった。いくら朝鮮総連が衣食住のすべてを保障するといっても、まったくの無一文で帰国するわけにはいかない。一家には蓄えと呼べるものなど皆無だ。慎ましくその日、その日を送ってきたのだ。それに次女の幸代にはせめて義務教育だけでも修了させてやりたいという思いも強かった。
 寿吉は仁貞の考えなど無視して帰国手続きを開始してしまった。夜になると毎晩のように二人は狭い家で怒鳴り合った。
「アイゴー(哀号)、またその話か。俺は帰国する。子供だって帰国に賛成しているではないか」
「私はもう少し様子を見てからでも遅くないと言っているのよ。せめて幸代が中学を卒業するまでどうして待てないの」
 言い争いはどこまで行っても平行線で妥協の余地はなかった。結局、怒鳴り合いに疲れた二人が出した結論は、父親が長男、長女を連れて先に帰国、幸代の中学卒業を待って二人が後を追うというものだった。
 幸代は兄や姉のように北朝鮮に関する本を読んだことはなかった。新天地といわれても、それがどんなところなのか見当もつかなかった。帰国を海外旅行にでも行くような気持ちで受け止めていた。
 寿吉は帰国手続きを着々と進め、秋には手続きが完了し、新潟港への呼び出しを待つばかりになった。
「この分なら新年は共和国で迎えられそうだな」
 寿吉は帰国の日が近づくにつれ日雇いの仕事も手に付かない状態だった。心はすでに共和国にあるかのようで、代わって生活を支えたのは仁貞の日雇い仕事と内職だけだった。
 乗船日が決定したのはそれから間もなくだ。一九六二年十二月、一家五人は新潟へ向かった。帰国者は新潟日赤センターに設けられた帰国者臨時宿泊施設に入所することになっている。ここで最後の手続きを済ませてから乗船ということになる。日本各地から集まってきた帰国者は新潟駅から専用バスで日赤センターに入所した。
 センターの周囲は鉄条網で囲まれ、内部には体育館のような収容棟が立ち並び、帰国者は日本で最後の日々をここで送ることになっていた。これから「地上の楽園」に向かうにしては宿泊施設はあまりにも殺伐としていた。
 センター正門の近くには面会所が設けられていて、宿泊施設に入ると出港まで外出は禁止された。家族や知人との面会はこの面会所を利用するか、金網越しに話をするしかなかった。
 臨時宿泊施設に滞在するのは三日間だったが、張り巡らされた鉄条網といい、なんの仕切りもない広い部屋といい、捕虜収容所にでも入れられたような印象を誰もが抱いただろう。しかし、数日後には差別から解放され、楽園での生活が待っているかと思うと、そんな不満はどこかに吹き飛んでしまったのかもしれない。
 四日目の朝、出港の日である。帰国者は全員、外務省係官の面接を受けた。
「朝鮮民主主義人民共和国への帰国はあなたの意志ですか。誰かに強要されたということはありませんか。一度、帰国すると再び日本に戻ってくることはできませんが、それでもいいですね」
 寿吉は「はい」とだけ答えた。しかし、心の中では「こんな日本にだれが戻って来るものか」と叫んでいただろう。続いて長男、長女が同じ質問を受けたが答えはまったく同じだった。
 やがて乗船が開始された。この時だけは日本に残留する家族も一時乗船が認められた。幸代は父親に引かれて船内に入って見た。外から見ると豪華客船に見えた輸送船だが、老朽化したソ連船を改造した貨客船だった。


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