ニッケイ新聞 2013年4月18日
はじめに、この拙文は移民100年史編纂委員会からの要請により、移民100年史農業編第五章第一節キノコの項に掲載する目的で、約3年前に執筆した草稿である事をご理解頂きたい。
其の為、私は当編纂委員会が催した会合にも何回か出席し、ブラジルに於けるキノコの生産と流通に関する1930年代から2006年頃迄の史実を編纂して、移民史編纂委員会に当草稿を提出した。
その後同編纂委員会にまつわる金銭トラブルや、度重なる原稿編纂の遅延などであらぬ醜態を曝け出し、委員会の陣容も再編され、果ては邦字紙のほぼ一面を割いて、委員会の正当性と事態の顛末を釈明する声明書を掲載する等紛糾した。
私は草稿を提出して2年が経過したが、移民史編纂委員会からは何等の音沙汰も無いので、出聖の折、文協の当委員会の事務所を訪ねた所、原稿は上梓する為、既に日本に送ったとの事で、小生の草稿が如何に処理されたか知る由もなかった。
斯様に小生の草稿は編纂委員会の内紛に紛れて行方不明になり、結果的には過日、邦字紙で移民100年史農業編書籍の入荷広告を知り、新旧何れの編纂委員会によるものか、結果的には杜撰な運営により小生の当草稿の執筆は徒労に終った。些細な事だが個人の知的財産をも蔑ろにした事に、遅ればせながら憤りを感じた。
それも束の間、偶然にも外山脩氏が当100年史編纂委員会に提出された原稿が、不可解な選考基準により選外となった経緯を邦字紙へ投稿され、委員会の内幕の 不透明さを計らずも知るに及んで、日系社会の更なる複雑さが浮き彫りにされた。
斯様に私の草案も外山氏の原稿も、経緯は異なるが移民100年史には掲載されなかった。しかし小生がブラジルに於けるキノコ栽培と流通の史実を編纂した動機は、自発的な寄稿ではなく、飽くまでも冒頭に述べた如く移民100年史編纂委員会からの要請に応じた為だった。
農業大国ブラジルに於ける様々な農業統計では、微々たる一端を担うに過ぎないキノコ産業だが、日系人の独壇場で50年の歳月を懸けて培われて来たキノコ業界の歴史を知る数少い存命者として、この草稿がコロニア諸賢に届かずして朽ちてしまうのも心許なく、敢て次世代への語り部となる責務を感じた。
それで我々が歩んだキノコにまつわる史実と、時代考証を兼ねて同時代に生きた、新来移民のキノコ屋稼業の一端を加筆し、ニッケイ新聞に寄稿する次第である。
本論に入る前にブラジルのキノコ栽培の先駆者、故古本隆寿(1916?87)に謹んで哀悼の意を表し度い。合掌(敬称略)。次回から本論。
《ノザワ・ヒロシ》モジ・ダス・クルーゼス在住。1935年7月に栃木県鹿沼市で生まれる。東京都立北園高等学校卒、国立鹿児島大学水産学部卒。61年に渡伯、62?92年頃、キノコ類及びプロポリスの生産と流通、日本船籍マグロ延縄漁船の傭船合弁企業現地代表、93年以降、JAIDO(日本国際開発機構)中南米担当、及びJICA(日本国際協力機構)の第三国専門家として、両機構が関連した南米諸国に於ける各種プロジェクト及び資源調査に関与。現在中南米諸国の一次産品開発と輸出業など。