ニッケイ新聞 2013年4月18日
なぜ日本語を使わないのかと伊禮門さんに問うと、「言っていることはわかる。でも、自分からは話さない。間違うのが恥ずかしいんだ」と言い訳し、取材中も一貫して早口のポ語で通した。
しゃべらなくなった直接のキッカケは、訪日直後に勤めた工場で日本人従業員から「(日本語が)下手くそ」とからかわれて嫌気がさしたからだという。でも、同じ経験をしたデカセギは山ほどいるはずだ。本人いわく「ひらがなが書ける程度」、事実初心者クラスに通う。
失業中の今、「日本人と競争する必要がでてきたから、そう言っていられなくなった」と考え直し、受講し始めた。ここでの勉強に加え、可児市で開かれている日本語教室にも通い、フォークリフトの免許取得のための教習にも精を出す。
在日ブラジル人社会だけで生きていけた以前とは異なり、日本適応の努力が必要な時代になった。20年間も在日社会で生きてきたあり方が問われている。適応の努力をする動機を持つものだけが日本に残っているようだ。
「未来は神のみぞ知る。20年前に植えた種が今芽を出しつつある。とにかく子供のために日本で生きていく。そのために頑張る」。自らに言い聞かせるようなその言葉に、悲壮感は漂っていないように感じた。
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多文化交流センターにはペルー人女性が経営するペルー、ブラジルの輸入雑貨店がある。そこで働くエリアーニ・コルデイロさん(45、二世)はパラナ州クリチーバ出身で、一世の父、ポルトガル系の母を持つ。福井、名古屋、美濃加茂と移り在日10年になる。
夫婦で訪日したが8年前に離婚。一時期は20代の2人の子供も訪日して工場労働をしたが職を失い、まもなく帰伯した。現在は市内の賃貸アパートに一人で暮らす。「私はここが好き。安全だし。幸せよ」と屈託のない笑顔を見せるが、家族はバラバラだ。
「日本の何がいいって、教育や制度全般がきちんとしている。ブラジルだとストレスがたまるし、暴力事件も多いじゃない」と眉をひそめる。
将来について尋ねると「家族はみんな向こうだから『戻ってきたら』って言われるけど、しばらくはこっちにいるわ」と笑みを浮かべ、間を置いてから「ブラジルも好きだけど、食べ物がもう無理。気持ち悪くなってしまうの」と本音とも聞こえる心情を吐露した。
同店に勤め始めて5カ月ほど。かつて自動車部品工場で働いていたが、金融危機で失業した。しかし、帰伯するという選択肢はなかった。理由を問うと「日本が好きだから。なんとか仕事が見つかったし」と一言だけ。
危機後、周囲はどんな様子だったのか。「残業してそれなりの額を稼いで、いい生活を続けた人もいたけど、多くは金融危機でひどい目にあった。みんな節度ある生活をすることを学んだんじゃないかな」と在日社会の心情変化を指摘した。それまでは稼いだお金は送金するか、使っていたということだ。
彼女の周りにはあまり悲観的な人はいないという。「みんな希望を持っているみたい。もうここに慣れたから、ここにいたいと思っているんじゃないかしら」。市内に住むブラジル人は目減りしているというデータがある一方、彼女のように定住志向をもつ人も少なくない。
「日本とブラジル。どっちかを選ばなきゃいけないでしょ。私は日本を選んだの」と晴れやかな顔で言った。(つづく、田中詩穂記者)