ニッケイ新聞 2013年4月19日
2月5日午後2時半頃、名古屋駅を出て30分ほど市バスに揺られて降りると、川沿いに立つ真っ青に壁が塗られた建物が見えてきた。名古屋市にあるブラジル人学校「コレジオ・ブラジル・ジャパン」。国外在住ブラジル人を代表する機関「在外ブラジル人代表者協議会」の元評議員会長、篠田カルロスさん(二世)の経営する学校だ。
訪ねたこの日、当地の学校のカリキュラムに従い、休み中だった。しかし校内ががらんどうのように見えたのは、そのせいだけではないようだ。
篠田さんはちょうど帰伯中で会えなかった。出勤していたスプレチーボ担当の田中マルリさん(35、三世)は、小中学校で日本語指導員を務めた経験があり、コレジオでも日本語を教えていた秋間恵美子さん(神奈川出身)らに校内を案内してもらった。
金融危機から3年余りが経った11年2月、経営難のため、学校の新年度にあたり閉鎖の危機に見舞われていた。「でも、その前の年から生徒は減っていた」。各教室の説明をしながら、マルリさんはそう振り返る。
「自分ひとりの力ではもう無理だと思った」。昨年一時帰伯した折、本紙を訪れた篠田さんはそう語っていた。
07年に開校したばかりだった同校には、最大で生徒が85人いたが、翌年の金融危機後の景気低迷で、親が職を失い約3万円の月謝を払えず、その数は激減した。
借金までして経営を続けてきた篠田さんだが、11年2月時点で、ついに閉校以外の選択肢はなくなったと一端は判断した。居場所を失った生徒は、他のブラジル人学校や日本の公立校に転校したり、家族で帰伯したりなどして散り散りになり、うち10人はどの学校にも通わない不就学の状態に陥った。
本人の意思で訪日したわけではないデカセギ版〃準二世〃がもっとも理不尽な状況に置かれる——社会のひずみが最も弱い部分に集中するという構図は、戦前の子供移民となんら変わらない。
「もう一度、子供達を勉強させたい」。そう言って10人の子供の親が篠田さんのもとを訪れ、学校再開を懇願した。話し合いの結果、学校運営に積極的に保護者が関わることを条件に、11人の生徒で「とりあえず一年」、昨年4月に再開した。
その言葉通り保護者達は熱心に動いた。フェイジョアーダ会にフェスタ・ジュニーナの開催、国際フェスティバルなどイベントへの出展で資金を稼ぐだけでなく、学校のトイレ掃除なども進んでやった。
「子供を勉強させたいという熱意がすごかった。大事な場所だから何とかならないかと懇願されて、そこまで言ってもらって嫌とは言えなかった。とにかくこの1年だけ、12月まではやってみようということで始まった」と秋間さんは振り返る。
そして、一年が経った。学期終了前後になって、生徒は段階的に帰伯していった。日本に残った4人のうち2人は別の学校への転校が決まり、あとの2人は未定だったが、3月になっても生徒は一人も集まらず、新学期は開講されていない状態だ。通信講座のスプレチーボのみが開講されている。
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「日本に来たのはアドベンチャーだったね。1、2年行って男を上げて、家族を驚かせたかった」と人懐っこい笑顔を見せるのは、その場に居合わせたマルリさんの恋人、ドウグラス・ナシメントさん(37、三世)だ。これまでの経緯を尋ねると、気さくな雰囲気で話してくれた。(つづく、田中詩穂記者)