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ブラジルに於ける茸栽培の沿革と一考察=野澤弘司=(7)

ニッケイ新聞 2013年4月26日

 船上の移民と埠頭に群る見送りの人を繋ぐ紙テープを手に、何度となく繰りかえしては響き渡る拡声器からのかすれた蛍の光が、更に哀愁を誘い、帰って来いよ! 頑張れよ! との歓呼の声に送られながら、貨客兼移民傭船ルイス号は夕闇迫る山下桟橋を後にした。
 ルイス号には200人余りの炭坑離職者、一般家族、数名の単身青年、そしてロシア系難民数家族の移民用居住区が上甲板に特設され、蚕棚式の2段ベッドが、所狭しと立ち並んでいた。日本観光を終え東南アジアへの旅を続ける金満家族は船室に乗船し、神戸、那覇、香港、シンガポール、ペナン、モーリシアス、モザンビック、ローレンソマルケス、ダーバン、イーストロンドン、ポートエリザベス、ケープタウン、リオに寄港した。
 寄港先では鉱物のインゴット、雑貨、穀類の麻袋、機械類等の貨物を積み降しながら、或る港は早朝に接岸して夕刻には出港し、或る港は4日間も停泊するなど、万事貨物優先の航海を経て、横浜を出港して60日後に、日の丸の旗を小脇にかざした身請け人が待つ、灼熱の新天地サントス港38番ゲート際の埠頭に無事接岸した。
 移民船の居住区は、隣との間仕切りも天井も全て帆布で覆われていた。空調設備が無いので、マッシュルームの種菌は乗船後一早く知り合った、アムステルダムの 商船学校を出てまもない青年三等航海士のクーラー付きの船室に置いてもらった。いよいよ下船の時となり、種菌ビンの側面は小々黄変し、またビンの底には小々水が溜まっていたが未だ充分使えると思った。種菌の入ったみかん箱の隙間には衣類を詰込みカモフラージユして風呂敷に包み妻の手荷物として無事通関出来た。
 横浜の移民斡旋所に出張した両替業務の銀行員から、これだけですかと念を押され両替した虎の子の渡航携行資金はU$80とパスポートの最終ページの所定の欄に 記載された。(当時の為替レートは¥360/う$、即ち総額で¥28800)。これに乗船間際に親族、友人からの餞別や、途中の寄港地では炭坑離職者達への観光通訳で小遣いを稼いで来たが、寄港地が余りにも多く、また船内での出費も予想外に嵩み、60日間の航海後サントスに着いた時の残金は夫婦でU$7だった。
 ブラジルに着いたら頼りにしていた呼び寄せ人は、期待外れで全然頼りにならず途方に暮れたが、何とかなるさの若さと、元上司からの餞別代わりのマッシュルームの種菌が、今日に至る50年のブラジル生活を運命付ける十字路となった。
 即ち、ブラジル入国後の居場所が無いので、移民船で知り合ったブラジル二世の花嫁と一時帰国した再渡航の大野夫妻の厚情に甘え居候した。幸いにも寄寓宅でブラジルに進出して間もない、日本企業の社長の知己を得、サンパウロ郊外でぶどう、柿、椎茸、干瓢等を栽培する篤農家の瓜生知助を紹介された。
 瓜生は当時マッシュルーム栽培の試行錯誤を繰り返していたが、不確実な種菌と栽培技術の交流が閉鎖的の為発茸には至らなかった。その為私は日本から携行した種菌を瓜生に提供し、マッシュルーム栽培を瓜生と共同研究する事になった。
 このような縁と経緯で、私の日本仕込みのマッシュルーム栽培体験は、移民船が出る迄の短期間ではあったが、瓜生の試験栽培には予想外の助っ人となり、3ヶ月後にはマッシュルームの試験栽培は見事に成功し、キノコの発生を見た。日本から携行した種菌から生まれた、ブラジル二世のマッシュルームの純白な子実体は自分の分身とも思われ嬉しかった。早速、恩人である缶詰会社の上司に、ブラジルでのマッシュルーム栽培の経緯を、感謝の念を込めて書き送った。
 かかる予想外の順調な成功を得た自信で仕事への弾みが付き、引き続き此れ等の子実体の組織から種菌を純粋拡大培養して、近隣のマッッシュルーム栽培希望者 には、当初の試験栽培に必要な種菌だけは無料で頒布した。
 組織培養と云えど、段ボール箱を横倒しにして前部にビニールを垂れ下げたお粗末な接種用の無菌箱と、原菌培養の試験管を殺菌する家庭用圧力釜、種菌用の牛乳の リットルビンが約300本、馬糞培地の殺菌用ドラム缶とレンガ積みの釜戸、種菌の保管棚、解剖用メスが1本、接種時の殺菌用アルコールランプ、試験管約50本、 試験管と牛乳ビン用の綿栓、防湿用硫酸紙と輪ゴム等が種菌培養設備の全てだった。
 種菌の培地は当時は未だ街路にはシャレッテ(馬車)が往来していたので、近所の子供達にセメント袋一杯の馬糞を2コントで集めさせた。貯まった馬糞を約1ヶ月 かけて醗酵させ培地とし、当時の牛乳リットルビンに出来高払いで詰めさせ、培地の中程に棒を突込み気孔を開けて後、綿栓をしてから硫酸紙で包み輪ゴムで縛った。
 種菌ビンに利用した牛乳用リットルビンは最初街角のバールで調達していたが、量が 増えるに連れサンミゲールのサンタマリアやシスペルの工場から直接購入した。(つづく)