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ブラジルに於ける茸栽培の沿革と一考察=野澤弘司=(8)

ニッケイ新聞 2013年4月27日

 醗酵した馬糞のビン詰め培地を、五右衛門風呂宜しき底蓋の下迄水を張ったドラム缶で、連続3日間、薪を焚いての蒸気殺菌後、放冷3日間の間欠殺菌を2回繰り返し培地とした。次に予め試験管培養した原菌をビンに入った馬糞培地に、メスで一掻き接種して一次拡大培養種菌とした。種菌の製造は夏場の仕事だったので、約1ヶ月で菌糸はビンの底まで繁殖した。次いで殺菌済みのビン詰め馬糞培地に、スプーン一杯分の一次拡大培養菌を接種して二次拡大純粋培養種菌とし販売した。
 或る日、菌床材料のカッピンゴルーラの草刈りに行った折、朽ち果てた倒木の株本のケンケン蟻の巣から、ヒラタケと思しきキノコの見事な群落に出遭った。この新発見からケンケン蟻の巣とキノコとの因果関係が脳裏から離れず模索した。
 その結果ケンケンの巣の煮汁を濾過した抽出液と、砂糖を適量加えた寒天斜面培地に、子実体を破砕した組織培養の菌子が頗る旺盛に繁殖したのを発見し此れを培地とした。蟻の巣は手軽に入手出来たので、以後はペプトン培地からケンケン培地に切替えた。
 従来の種菌が余りにも粗雑だったので、私の種菌は何処の菌舎でも脚光を浴び好評を得たばかりでなく、何時失敗するかと我々の動向を柵越しに見守ていた近隣の古老達も一人二人と我々に歩み寄り、小規模ながらマッシュルームの栽培を手掛ける事になり、近所の交流も増え、集落の雰囲気はキノコを介して変わって来た。
 私はボツジュル周辺では一端のマッシュルーム栽培技術者として、一目置かれる存在となり、同時に想定外の収入にも恵まれた。また篤農家を介して古本との知遇を得、更には古本から既述のサンパウロ州立生物研究所のDR.JULIO を知った。
 1962年当時の私の日課は、4?10月のマッシュルーム栽培期間中は、早朝、4時5分モジ駅発のセントラル線サンパウロ行き一番電車で、サンパウロの市営市場にマッシュルームを担いで売り捌き、昼頃には農場に帰った。午後は農夫(カマラーダ) と堆肥の仕込からキノコの収穫、そして翌日サンパウロで売り捌くキノコの準備や、近隣のキノコ栽培初心者に指導と土日曜も休む間はなかった。
 このセントラル線を走る電車は窓ガラスは破れてまばらで、雨風は容赦なく吹込むが片道60kmを、3ミル(当時は約5円)と世界一安い電車で通った頃が懐かしい。
 ぶどうの出荷木箱にマッシュルームを4kg詰め、2箱ずつ入れたズックの手提げ袋を 両手にぶら下げ、都合16kgをサンパウロの市場で売るのが1日のノルマだった。満月前後は収穫量も多く、農夫を助っ人としてサンパウロに同行したので、めったに電車にも乗れなかった農夫は満月が来るのを楽しみに待つようになった。
 当時のカンタレーラの市営市場は年中無休で、毎朝6時のベルと共に開門した。私は常に開門10分前には、途方も無く分厚く頑丈な鉄格子の扉の前で待った。
 当市場で仕入れる常連の仲買人やキタンデイロ(八百屋)、フエランテ(朝市露天商)等とも次第に顔馴染みになり、彼等からはジャポンノーボ(日本からの新来移民の蔑称)と呼ばれながら、毎朝9時前にはキノコを完売して、更には翌日の注文も予め貰えるまでになった。
 暫くの間、市営市場に直接マッシュルームを持ち込んで売り捌く栽培者は、私だけで無競争で売れた。売買は全てその場での現金商売なので焦げ付けは一切無かった。然し時折、小売業者のバラッカ(ブース)の片隅で、売上げの札束を数えていると、大男で恰幅が良く恐ろしい顔をした、フイスカル(税官吏)から小遣い欲しさにノッタ(流通伝票)の提示を求められたが、農業者の直売は当時は無税でありポルトガル語の単語を並べただけの応答では業を煮やし、諦めて無罪放免になるのが常だった。
 1960年頃より戦後移住者の多くは、経済的にも生活が安定して来た反面、しばしば邦字紙の社会面を賑わす様な事件の主人公にもなって、日系社会のひんしゅくを買うケースも増えて来た。この社会現象に眉をひそめたのが、財成り名を遂げた戦前の旧移民だった。即ちヴォッセラ(VOCEはお前、ラは複数の等を掛けてお前達の意の日伯合成語)が、のうのうとブラジルで生きて行けるのは、ヨーラ(EUの俺の意のエウがヨーとなり、ラは複数の等で俺達の意)の苦労があったからこそだと、時折ブラジル生活の浅い戦後の新来移民をジャポンノーヴォと呼ばわり蔑む旧移民も居た。
 ブラジル人はマッシュルームと発音するより、同じラテン語系の独特の発音でシャンピニオンと語尾を鼻音で締めくくった方が気分的にも爽快な様で、殆どの顧客とはシャンピニオン、又はキノコの総称であるコグメロで通した。
 ぶら下げて来たマッシュルームが時折市場で売れ残ると、郊外のサント アマーロ區に在るYALEと称するビン詰工場迄、バスを3回乗り継ぎ1時間余りを掛けて行き、市価の半値で引き取ってもらった。キノコと共に乗り降りするバスの階段は高く辛かった。(つづく)