ニッケイ新聞 2013年4月30日
台湾系移民の誘致とキノコ村の創設泥壁と土間で出来た空調設備の無い菌舎での栽培は、11月から翌年3月迄の夏場は高温の為、キノコの発生は極く僅かとなり、発生しても雑菌やキノコ蝿にやられて商品にはならず休業した。その間は専ら種菌作りや菌舎の修理に、また南米各地への旅行に費やした。渡航費も無いのにわざわざ寄港地が多く、日数も掛かるアフリカ廻りの移民船を無条件で選んだのも放浪癖の所為で、とにかく旅行は好きだった。何はともあれ、半年働けば、1年間は生活出来たおおらかな良き時代でもあった。
然し何とかしてマッシュルームの市場開拓により需要を増やし、農家の副業の域から専業への転換を計り、ブラジル農業の一産業部門として更なる発展を計るべく思いは 馳せた。それには先ずキノコの生産を大幅に拡大する事が、当面の課題と悟った。
果実や野菜,花卉、養鶏等の安定した近郊農業を営む旧移民は、昼夜、日曜祭日を問わず過酷な肉体労働を強いる、当時の茸栽培事業には余り関心を示さなかった。当時のマッシュルーム栽培者の殆どは、サンパウロ近郊のジャポンノーボであった。
そこで私が着目したのが当時の台湾人特有のキノコ栽培に係る適応性だった。即ち繰り返し述べるが、キノコ栽培での堆肥の切り返しや、床入れ作業の高温多湿での過酷な労働や、キノコは成長が早く毎日収穫を要するので、昼夜、土日休日を問わない季間無休の非情な労働条件にも耐えられる当時の台湾人の国民性であった。
更に台湾本土には既に日本を凌ぐ、高度のマッシュルーム栽培技術と旺盛な労働意欲を堅持して居り、此れ等の得難い特性を有する台湾人が、ブラジルに定着し、台湾系に拠るマッシュルーム栽培団地の造成を想定した。
約45年前の台湾は不安定な社会,外交,経済情勢から、国外逃避、即ち有産階級はアメリカ、カナダに、一般人の多くはブラジル、パラグアイへの移民熱が嵩じていた。然しいずれも国家的な移民政策に拠るものではなく、全く個人的な志望に拠るもので渡航費も全て自己負担だった。また移住希望者の多くは商業志望だった。
そこで私は台湾政府と正式な国交を締結していないブラジルに、台湾系移民を誘致するには如何なる方策があるか調査した。当時は移民に関する知識も関連役所の機能も知らず、役所から移民斡旋の糸口を掴むのには、大分たらい回しにされたが、約1ヶ月後には何とか台湾人を呼び寄せるルートと必要書類の詳細が判明した。
同時にスザノでマッシュルームを栽培していた台湾人の黄キロウと知り合った。彼は私の台湾系によるキノコ栽培団地造成計画に共鳴し、彼と合作で台湾からのマッシュルーム栽培移民を誘致する事になった。
台北飛行場の近くで黄の妻が営む薬局の片隅に、黄と合作でブラジル移住斡旋所を開設して移住者を募った。3ヶ月間で約80家族の応募者があり予想外の盛況だった。此れ等応募者の一次選考は、黄の妻が台北で行い、内定者は必要な書類や写真をブラジルの私に郵送して来た。台北での応募者の中には商業移民を希望する者が多かった事は既に述べたが、どのように説いたか知る由もないが、多くの移住 希望者を農業志向に洗脳して、夢をかき立てた黄の妻の手腕を大いに賞賛したい。
既述の如くブラジルは台湾との国交が無いので、領事業務の代行機関はサンパウロのノーベ・デ・ジュリオ通りのトンネル際の台湾貿易公司内で行われた。4枚の必要書類にバタバタと盲判よろしく捺印してもらい、公の手数料とも個人的なチップとも解される、1枚の書類に就き当初はU$5を、翌月からは値上りしてU$8を領収書無しで払った。次いでブラジルの移住許可申請の代行者にこの書類を手渡した。
約1ヶ月後にはブラジル側での全ての移住手続きが完了し、此れ等の書類を台北に返送し、台湾側での然るべき手続きがなされた。それから約半年後には隔月就航のオランダ商船アフリカ経由の移民船で、基隆から日本人移住者と合流してサントス埠頭に着いた。斡旋人の黄と私は船が着く度に、台湾からの移住者を出迎えた。
移住者が入国手続きと通関検査が終わるや、その場で移住斡旋人として彼等の今後の生活設計の相談に乗った。予め台湾で黄の妻が紹介していたモジダス クルーゼスに於けるキノコ栽培を極力勧誘した。移住者の中には台湾でのキノコ栽培経験者も何人か居たので、彼等が核になれば栽培経験の無い家族も同調出来ると確信した。
台湾では約80家族がブラジル移民に応募し、その後約1年以内に約40家族がサントスに安着した。そして前述の最初の入植者呉換竜の呼び寄せも含め約30家族がモジのキノコ村に入植した。ポルトガル語が皆目理解出来ない彼等に、マンダリンと台湾語の解る黄と呉が住居やキノコ栽培用地の斡旋、建築資材の購入、菌床材料や種菌の入手ばかりか、子供の学校入学、永住権申請等の世話まで代行して、さながらキノコ村の村長役を果たした。(つづく)