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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第70回

ニッケイ新聞 2013年5月9日

「それがどうだっていうんだ。何年付き合っていても信頼関係が結べないことだってあるんだ。付き合った年数なんか問題じゃない」
「本気なの」
「こんなこと冗談で言えるか」怒った口調で小宮が言い返した。
「だって私たちまだ知り合ったばかりよ」
 叫子は涙声になっていた。叫子は結婚には絶望的になっていた。日本人との結婚は想像すらしたことがなった。想像できなかったのだろう。モブラールに通っているのも、ブラジル人との結婚なら可能性があるかも知れないと思ったからだろう。予想もしていなかった小宮のプロポーズをどう受け止めていいのか、驚き、迷い、喜びが複雑に絡みこんで涙が出てきたのかもしれない。
「私なんかでいいの」
「ああ、結婚しよう。一緒に暮らそう。君とならきっとうまくやっていける」
 それから数日後、叫子は小宮のアパートに引っ越してきた。荷物はトランク三つだけだった。引っ越してきた日、叫子は改まった口調で言った。
「ふつつかな嫁ですが、末永くよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 小宮も神妙な顔つきで答えた。「叫子さん、じゃない、叫子、そんな堅苦しい挨拶は止めろよ」
 叫子は何も答えずに微笑んだ。小宮はきっと穏やかな家庭が築けるとその時、確信した。

日系三世

 児玉はサンパウロでの生活にも慣れ、取材で各地を飛び回る日々を送っていた。テレーザと週末を一緒に過ごしながら簡単なポルトガル語もほとんどマスターした。
 しかし、テレーザは義務教育の小学校四年間しか学んでいなかった。難解な文法の説明もほとんど無理だったし、会話にはジリア(俗語)が混じった。その中には品のない言葉も多かった。
 新聞社に戻れば編集部は日本語だけの世界で、ブラジルにいる実感はなくなる。日本語欄編集部の隣の部屋は、二世、三世の記者が紙面を作っているポルトガル語欄の編集部があった。児玉は彼らと一緒に取材する機会も多く、年令も近いということもあり、互いに双方の編集部を行ったり来たりしていた。
 彼らと雑談をしているときだった。
「おい、児玉、おまえ、その言葉どこで覚えたんだ」
「どこでって……」
「意味をわかって使っているのか」
 何気なく呟いた一言を中田編集長に咎められた。
 児玉は「あのヤロー」とか「こんちくしょう」くらいの意味だと思って「プッタキパリュウ」というジリアを使った。しかし、正確に翻訳すれば「この淫売の子供」ときわめて侮蔑的な言葉だった。編集長は言葉の解説をすると、
「そんな言葉は公式の場では、たとえ冗談でも口にするなよ、いいな」
 と、厳しい口調で児玉を叱責した。
 編集長の注意を聞き児玉はポルトガル語を正式に学ぶ必要があると思った。移民にポルトガル語を教える学校がコンデの坂を上り切ったリベルダーデ広場にある。またそこでは二世、三世に日本語や算盤を教えていた。
 児玉はその日の原稿を書き上げると、入学手続きを取るために学校を訪ねた。学校は古びたビルの二階にあり、一階はアミノという布団屋だった。山梨県から戦前に移住して来た網野弥太郎がやっている店で、布団、毛布、タオルケットを販売していた。
 ブラジルで布団が売れるのかと思うが、標高が八百メートルのサンパウロは夜になると急激に気温が下がる。その落差に体が順応できずにロシア人でも風邪をひくといわれている。そこに目を付けて布団を売り出すと、これがブラジル人にも受けて大儲けをした。


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