ニッケイ新聞 2013年5月18日
山下は同級生と一緒に写っている当時の写真を見せてくれた。見ると、皆、背筋を伸ばし、キリッとした表情をしている。筆者の記憶の中にある敗戦後の日本の同年輩の子供に比較すると、数段上という感じだ。その印象を口にすると、
「そりゃー、あの頃は、日本軍が大陸で勝った勝ったで、勢いが良かったですからネー」
と微笑していた。それが、子供たちの誇りと自覚になり、こういう表情になったという。
「日本学校では、いわゆる忠君愛国教育でしたか?」
という筆者の質問に、山下は、静かに、こう答えた。
「そうです……」
筆者は、写真の中に二世らしい顔が無いことに気付き「二世の子供は居なかったのですか?」と訊いてみた。ところが、意外なことに、返事は「イヤー、ほとんどがブラジル生まれだったでしょう」だった。
これにはハッとした。この時、気付いたのであるが、同じブラジル生まれでも、戦前と戦後の二世では顔つきが違う。戦前派は日本人的であり、戦後派はブラジル人的である。(戦後派は、日本の敗戦にガッカリして、ブラジル人意識を持つようになった)
山下によると、当時は一世、二世という意識は本人たちにもなく、二世という言葉すら使われなかった。だから、たまに日本語が話せない子供がいると、ブラジル生まれであっても「日本人なのに日本語が話せない」と、からかわれた。
当時、ポンペイアに住んでいて、山下をよく知っていたという人が、2008年、サンパウロの市内で健在であった。星野瞳という号で、邦字新聞紙上で俳句の指導をしていた。90歳になるということであったが、至極元気そうであった。星野は、懐かしそうに、こう語った。
「我々が、よくカフェーを飲みに行ったバール が、山下博美さんのお父さんがやっていた店で、山下さんは、それを手伝っていました。おとなしい子供で、我々はヒロミちゃんヒロミちゃんと呼んでいました。とてものこと、あんな事をするようには見えなかった」
あんな事とは、そのヒロミちゃんが終戦直後、21歳のときに、同志と共に起こした2件の襲撃事件のことである。
当時、邦人社会では、祖国日本の勝敗に関する情報が入り乱れていた。敗戦も報じられたが、奇妙なことに「勝った」というニュースも流れていた。
その結果、戦勝を信ずる派と敗戦を認識する派が生まれ、反目した。反目は対立となり、次第に険悪化して行った。
山下博美は戦勝を信じていた。その山下たちから観ると「敗戦派の中に、皇室の尊厳を犯し、国家(日本)を冒とくする者が現れ、さらに戦勝派と敗戦派の対立が邦人社会を見苦しいほどに混乱させていた」という。
事態を憂えた山下は、同志たちと「ことは(邦人社会の指導者たちが起こした)軽率な敗戦認識運動から起こった。彼らの覚醒を求める」と、サンパウロに乗り込み、運動の中心人物を襲撃した。山下自身が手を下したわけではないが、その襲撃で、認識運動の中心人物二人が、拳銃で撃たれ、落命している。
その同志の一人である日高徳一とも、筆者はやはり2001年に知己となった。日高はマリリアで家族とともに自転車店を営んでいた。明るい人柄で、たとえば「下町の、話好きな明るく小柄なお爺さん」という印象だった。が、やはり純粋で内部に強いモノを持っていた。
山下より1年後の1926(大15)年、宮崎県の延岡に生まれ、7歳の幼年期、家族とともに渡航した。子供の頃、一家はドアルチーナで借地農をしていた。が、日本学校はなく、ブラジル学校は、父親が「日本に帰るのだから必要ない」と言うので行かなかった。だから学校は、どこにも行っていない。
父親と従兄が日本語を教えてくれた。家は貧しかったが、父は本だけは買ってくれた。日本から届く『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』を読んだ。戦争の話が多く、支那事変が始まると、日本軍の活躍を盛んに載せていた。少し日本語の読解力が進むと、山中峯太郎の日露戦争を題材とした小説、佐藤紅緑の少年向け小説を読んだ。同じ年頃の子供たちの間で、本を借りたり貸したりした。(つづく)