ニッケイ新聞 2013年5月21日
「無我夢中になって読んだ」という。自分が小説の中に居るような気がした。「身を鴻毛(こうもう)の軽(かろ)きに置き、君国に報じる」という言葉も覚えた。
日高の祖父は、二人とも西南戦争に従軍した。母の兄弟3人は日露戦争に出征、一人は戦死、一人は片足を失った。自分も兵隊さんになって戦地に行きたくてたまらなかった。自分だけが置き去りにされているような寂しさを感じた。
そういう気分を持ち続け、20歳の時、山下その他の同志とともに認識運動の中心人物を襲撃する。日高の場合は、実際に手を下し、人を一人死亡させた。(事件当時、二人はツッパンに居住)
もう一人、こちらは、少年期を日本で過ごした三岳久松にも触れておく。職業は画家で、2008年、すでに90歳に近かったが、サンパウロ市内の自宅で元気に暮していた。純で一本気な性格の様であった。
三岳は1919(大8)年、長崎市に生まれた。高等小学校を出た後、市内の商店で働いた。
「子供の頃、支那に渡る兵隊さんたちを見た。長崎港の近くの広場で。白鉢巻をし、白い襷(たすき)がけをしていた。軍歌をうたっていた。感動した。自分も行きたかった。ジッとしていられない思いだった」という。 1934(昭9)年、10代半ばで、家族と一緒に移住。翌年以降、キンターナで綿づくりをした。
戦争に行きたいという思いは変わらなかった。が、帰国はかなわなかった。そこで20歳になると、バウルーの日本領事館へ行って徴兵の延期願いを提出、郷里の連隊から送られてくる許可証を受取った。以後、毎年それを続けた。その許可証を、今も大事に持っている。
「時が来たら、徴兵検査を受けるために日本へ帰る。不合格だったら兵隊さんの飯炊きになってでも、戦地へ行く」と決めていた。
この三岳も、山下、日高とは別行動だったが、やはり終戦後、サンパウロへ出て認識運動の中心人物を襲撃する。
以上3人の襲撃事件の詳細は、後に記す。