ニッケイ新聞 2013年5月22日
アルゼンチンの軍事政権時代(1976〜83年)の大統領で、多数の誘拐・虐殺事件で知られるホルへ・ラファエル・ヴィデラ氏が17日、収監先のブエノス・アイレスのマルコスパズ刑務所で死去した。87歳だった。18日付伯字紙が報じている。
1925年に軍人の子として生まれたヴィデラ氏は75年8月、フアン・ペロン大統領の死後、大統領となった妻のマリア・エステラ・M・デ・ペロン氏(通称、イザベルまたはイゼベリッタ)の政権で陸軍司令官に指名されたが、自身の妻をスパイにしてイザベル氏に接近するなどの策略後、76年3月24日に軍事クーデターを起こし、大統領に就任する。
南米では、チリのピノチェト政権やブラジル、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイも「反共産主義」という名目で政治犯弾圧を行っており、ヴィデラ氏は、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害した「コンドル作戦」にも関与した。ヴィデラ氏が行った弾圧は南米でも最大規模で、誘拐や迫害による死者は3万人、国外追放者は30万人と言われている。
特に悪名高いのは政治犯の乳児の誘拐だ。ヴィデラ政権では、政治犯の妻が妊娠中だった場合、強制収容所で出産させた後に殺害し、遺児を軍人や警官の養子として引き取らせた。同国の慈善団体「5月広場祖母の会」は35年間で108人の出自を明らかにしたが、約400人の行方はまだつかめていない。
また、刑務所に収容した政治犯が多くなると、その数を減らすために政治犯を飛行機上空から突き落とす、通称「死の飛行」を実践した。刑務所での拷問も、家畜も殺せる機械による電気ショックや水攻め、性的攻撃など、過度に非人道的なものが多かったという。
治安回復には成功したが、ハイパー・インフレや対外的な負債増大など経済策で失政したヴィデラ氏は、81年3月に大統領を辞任。それからは短命政権が続き、翌82年発足のガルティエリ政権はマルヴィナス戦争で敗れたことで弱体化が決定的となり、83年に軍事政権は幕を閉じた。
アルゼンチン政府は軍政終了時から人権侵害などを理由にヴィデラ氏を告発し、85年には軍政時代の責任をとる形で終身刑が言い渡された。
90年には当時のカルロス・メネム大統領の特赦で自宅軟禁に刑が軽減されたが、90年代後半からは乳児の誘拐問題が取り沙汰されるようになり、2010年に人権侵害で終身刑、12年に乳児誘拐で禁錮50年の実刑判決が言い渡された。これらの裁判中も、ヴィデラ氏は「共産主義と戦った」の一転張りで反省の色はなかった。
同氏を軍葬することは同国の法律で禁止されている。