ニッケイ新聞 2013年5月22日
擁護論者とは、下院議員のオリヴェイラ・ボテーリョ、リラ・カストロ、弁護士のネストル・アスコリなどである。
レイス法案提出後の10年間、目立った排日的な動きはなかった。
が、邦人社会が移民25周年を祝っていた1933年の末、それが、突如、再現した。
リオで開催されていた新憲法制定議会に、日本移民を排斥する法案が提出されたのである。厳密には、新憲法の起草委員会作成の草案中の「外国移民受入れに関する条項」に対する修正案として提出された。
これは、ミゲール・コウトほか3人の議員から、別々に提出された。
内容は、総合すると、黒人の受入れは禁止、アジア人は厳重に制限、外国人の集中居住を禁止する……というものだった。外国人といっても、レイス法案の場合と同じ理由で、日本移民を指していることは明らかだった。
しかし、リオの日本大使館の迂闊(うかつ)さもあって、サンパウロの邦人社会が、それを知ったのは、年が明けてからであった。
邦人社会の中心地はサンパウロであった。リオの居住者はごく少なかった。そのリオに居った後藤武夫の知らせで、サンパウロで発行されていた邦字紙の日伯新聞、伯刺西爾(ブラジル)時報が1月から警告記事を、連日の様に掲載した。(後藤武夫=笠戸丸以前の渡航者で、邦人社会の世話役的存在であった)
が、当時、一般のブラジル人の間には、特に排日的な空気はなく、邦人社会は、この種の排日修正案登場の唐突さに意外の感を抱いた。そして前回と同様、成立しないであろうと、たかを括っていた。
起草委員会は、2月、新憲法法案を本会議へ提出した。排日修正案は退けられていた。「人種差別を明示した項目を憲法に盛り込むことは、不適切」という理由による。邦人社会はホッとした。
しかし、ミゲール・コウトは巻返しを図った。他の排日修正案提出者と連携して上記の(起草委員会が本会議に提出した)新憲法法案の移民受入れ条項に対して、新修正案を提出したのである。
そして不思議なことに、この新修正案を支持する議員が、日に日に増えて行く。
サンパウロで、それを知って驚愕(きょうがく)した邦人社会の指導者格の人々が会合(3月)、対策を協議した。古谷重綱、宮坂国人、君塚慎たちであった。
古谷は元駐アルゼンチン日本公使で、退官後、ブラジルに来て海岸地方でバナナを栽培、輸出していた。宮坂は(前出の)海外移住組合連合会の専務理事で、その現地組織ブラジル拓殖組合=通称ブラ拓=代表であった。ブラ拓は、移住地の建設・経営を主業務としていた。
君塚は、三菱の社主である岩崎家が経営する東山農事㈱の、ブラジルに於ける代表者であった。東山は、カフェー農場の他、種々の事業を経営していた。
この他、海外興業、大阪商船の在ブラジル代表者、日伯新聞の社長三浦鑿(さく)、伯刺西爾時報の社長黒石清作も出席した。(伯刺西爾時報は、以下ブラジル時報と表記する)
彼らは協議の上、リオへ急行した。日本大使と協力して新修正案の成立を阻止しようとしたのである。ところが、意外にも、大使の反応は冷淡であった。やむを得ず日本政府へ善処を懇請する電報を送った。応えて、時の広田弘毅外相が衆議院で、ブラジル制憲議会の動きを牽制する発言を行った。
これを機に、日本側の巻返しが始まった。大使館も豹変、関係各方面への工作を開始した。
議会の内外で、この排日色濃厚な新修正案に関する論議が盛んになり、反対、賛成入り乱れた。
新修正案には「アジア人の受入れ数は、過去50年間にブラジルに入国、定着せる当該国人の2%に制限する」という条項があり、依然として人種差別が歴然としており、これが弱点となっていた。
かくする内、ブラジル政府と制憲議会の風向きが変わった。新修正案は退けられる情勢となったのである。(つづく)