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エスタード紙=創業家族のルイ氏死去=軍政とも戦ったメスキッタ家

ニッケイ新聞 2013年5月23日

 ブラジルを代表するジャーナリストでエスタード・デ・サンパウロ紙創業家族のルイ・メスキッタ氏が21日、舌癌のために亡くなった。88歳だった。22日付伯字紙が報じている。
 1925年生まれのルイ氏は、エスタード紙創業者のジュリオ・デ・メスキッタ氏の孫、また、同紙二代目社長のジュリオ・デ・メスキッタ・フィーリョ氏の息子だ。
 1932年、父メスキッタ・フィーリョ氏は護憲革命の扇動役としてジェトゥリオ・ヴァルガス大統領に反旗を翻したが敗れ、一家はポルトガルに追放される。一旦帰国したが、38年のエスタード・ノーヴォに反抗したことで父は再び国外追放となり、エスタード紙も40年にヴァルガス政権に接収された。
 エスタード紙は45年にメスキッタ家に戻り、ルイ氏も48年から紙面作りに参加。53年には国際部の責任者となり、59年のキューバ革命のレポートで評価をあげる。当時のルイ氏は同革命を賞賛したが、後に批判的論調に転じている。
 1966年1月に姉妹紙「ジョルナル・ダ・タルデ」紙を創設。1964年の軍政成立当時は軍を支持したルイ氏だが、60年代末からはエスタード紙を継いだ兄ジュリオ・デ・メスキッタ・ネット氏と共に軍政批判を展開する。68年12月の軍政令第5条の公布以降は軍への痛烈な批判役に転じ、軍から度々検閲を受けた。軍が訂正した原稿は、ケーキのレシピや詩と入れ替えたりして暗黙の反抗も行った。
 ジュリオ・ネット氏が死去した1996年6月にエスタード紙を世襲。「ジャーナリズムの成功は歴史的観点で見て一貫性と信念があるかで決まる」との信条を貫いた同氏は「ルイ先生」の愛称で慕われ、ブラジルのジャーナリズムの象徴的存在として君臨した。
 同氏の死後、歴代大統領や政界の要人たちは一斉に追悼コメントを発表し、敬意を表した。