ニッケイ新聞 2013年5月23日
しかし、ミゲール・コウトたちは──執拗なことに──諦めなかった。新修正案を引っ込めたものの、代りに、またも、新々修正案を提出したのである。
内容は、移民の受入れ条項を「過去50年間に入国・定着せる各国移民の総数の2%を許容する」と変えてあった。人種差別という批判をかわすため「黒人」「アジア人」という部分を「各国移民」と変えたのである。
ところが、これは、実は日本移民の導入枠のみが、極端に削減されるカラクリになっていた。文面は、一見、各国移民に平等な制限という印象を与えるが、「最近50年」という部分がクセモノであった。この基準で、実際に受入れ数を計算してみると、欧州系移民は歴史が50年以上と長く入国数も多かったため、2%に制限されても受入れ数は減らなかった。が、日本移民は歴史が25年と短く入国数も少なかったため、2%に制限されると、受入れ数が2千8百人に制限され、前年の実績の2万4千人の1割余になってしまうのである。
議会は紛糾したが、アランャ蔵相の議事リードで、採決が決り投票が行われ、1934年5月、新々修正案は成立してしまった。しかも、賛成146票、反対41票という大差であった。邦人社会は唖然(あぜん)とした。特に、票差の大きさが、どう考えても腑に落ちなかった。
外国人の集中居住も禁止された。詳細は施行細則によることになったが、こちらも現実的には、最も打撃を受けるのは日本人の入植地であった。
2%の制限は、翌年から実施されたため、日本移民の数は激減した。なお、戦前の日本移民は、1908年の笠戸丸以来、1941年終了までの33年間に約18万人を数えた。
その6割が、日本政府が国策化した1924年から排日法が成立した1934年までの10年間に入国している。
外国人の集中居住禁止の施行細則の公布は先送りされた。結局、骨抜きになる。
しかし、この排日法で、日本では、対ブラジル熱が一挙に冷めた。
日本政府の後押しによる移住地の建設は終わり、実業家や拓殖事業家の──現代風に表現すれば──プロジェクトも新規のものは殆ど絶えた。
邦人社会の、笠戸丸以来の歴史の水流に隆起していた巨大な波頭は、砕け散った。興隆期に入った直後、突如、危機に直面したのである。
〃二陣〃のナショナリズムの熱風が発生させた乱気流に、巻き込まれたのである。
この後、日本では、海外移住組合連合会の理事長、平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)が、善後策を講ずるため、一つの作戦を展開した。
翌1935年、紡績・貿易業界の代表者からなる大型の使節団を引き連れて訪伯、ブラジル産の綿を──継続的かつ大量に──日本に買いつけることにしたのである。これによりブラジルの輸出は伸び、その分、外貨を獲得できることになった。政府や関連業界は大喜びした。(日本側は、これ以前からブラジルの綿に目をつけ、調査をしていた)
これで、排日に傾いていたブラジルの世論を親日の方向へ、いくらかでも引き戻すことは出来た。が、排日法の再検討は成らなかった。
使節団は、ショックを受けた邦人社会を経済的・精神的に支援する目的も兼ねていた。綿は、邦人社会の主産物の一つであった。その大規模な対日輸出、価格の安定により、生産者や関連業者は多かれ少なかれ潤った。そういう意味では、元気づけられた。
しかし歴史的に見た場合、排日法の成立は、邦人社会にとって大きな痛手となった。(つづく)