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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(11)

ニッケイ新聞 2013年5月28日

 追討ち

 排日法成立から3年後の1937年、邦人社会に追討ちがかかった。
 独裁権を握った大統領ゼッツリオ・バルガスが、ナショナリズム色濃厚な新政策を打ち出し、それが邦人社会を直撃したのである。
 バルガスが狙っていたのは、国家の再構築であった。
 実は、それまでのブラジルでは、1889年革命が目指した共和国という名の国家構築は遅延していた。広大な国土の中で地方勢力が割拠、統一性を欠いていた。サンパウロ州のカフェー成金が富と権力を集中させていた。国民の貧富の差が極端に広まっていた。上下、所の別無く国民意識は低かった。国家としてはバラバラだったのである。
 バルガスは、そういうブラジルを作り直し、新国家(いわゆるエスタード・ノーボ)をつくろうとしたのである。そのために様々な手を打った。
 まず、国民の大部分を占める貧しい労働者の保護策を矢継ぎ早に打ち出した。その結果、全国の労働者間でバルガス人気が沸騰した。彼らは、バルガスの強力な政治的基盤になった。その基盤に乗って、次の手を打った。
 折から、世界的にナショナリズムが大流行、その風がブラジルにも吹き込んでいた。
 バルガスは、この風を利用、ブラジル独自のナショナリズムを育成しようとした。無論、新国家建設のためである。
 彼はラジオを普及させ、自身が国民に直接呼びかけ、耳から国民意識を浸透、昂揚させた。
 当然のことながら、この新国家建設の障害となるモノは、改革の標的となった。
 その一つとなったのが、国内に存在する外国移民社会である。ここにも、その母国から母国流のナショナリズムの風が吹き込んでいた。その風を吸い込んだ外国移民の多くは母国への帰属意識が強く、ブラジルを祖国とは思ってはいなかった。子供を母国語で教育、いずれ家族で祖国へ帰ることを念願としていた。これはブラジルという国家の統一に大きな弊害と見做された。
 特に問題児が日本人社会だった。
 日本人だけの入植地をアチコチにつくり、日本語で会話をし、日本の風俗・習慣を守って生活している。日本人同士で結婚し、子供が生まれると、日本の総領事館・領事館に出生届けをし国籍をとっている。日本学校で教育し、天皇への忠誠心、祖国への愛国心を植えつけている。
 ブラジルの中に、小さいが無数の日本領土があるようなものであった。
ちなみに当時のブラジルの人口は約4千万、日本人とその子供は20万で0・5%に過ぎなかった。が、顔つきが違うので、どうしても目立ったのである。
 バルガスは嫌日家というわけではなかった。が、その新政策を推進上、どうしても改革の標的とせざるを得ない対象であった。
 バルガスは、外国移民の同化政策を推し進めた。そのための新法令を次々と発布した。外国人団体取締り法、外国語出版物取締り法、外国系ブラジル人の同化促進に関する法、移民法施行細則(含、集中居住、外国語学校の規制)などである。
 この内、特に外国語学校の規制は、邦人社会に深刻な衝撃を与えた。
 実はバルガスは、これより早く、1933年以降、国内の外国学校に注意を払う様になり、種々の干渉、制約を始めていた。そして1938年8月、一部地域を除き、14歳未満の児童に対する外国語による教育を禁止したのである。(一部地域とはサンパウロ州の場合、サンパウロ、サントス両市で、ここは11歳未満とされた)
 さらに、教師や学校経営者をブラジル人に制限した。
 これを機に、ポルトガル語の新聞が日本学校を攻撃、連邦政府の教育院院長も非難、サンパウロ州政府学務局の視学官が監視のため地方に飛ぶ……という騒ぎになった。(つづく)