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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(12)

ニッケイ新聞 2013年5月29日

 愕然(がくぜん)としたのが邦人社会である。当時の邦人は、ほとんどが農業に従事していた。14歳以上になれば、農家では欠かせぬ労働力であり、学校に通わせる余裕などなかった。
 邦人社会では、種々、協議、日本学校の指導機関であった文教普及会の事務長を更迭、後任に(以前、日伯新聞の編集長であった)野村忠三郎を据えた。野村は、この頃40歳前後の壮年期で、邦人社会の次代の指導者と目されていた人物であった。
 普及会事務長となった野村は、持論の伯主日従主義を打ち出し、日本学校の教育方針を変更した。が、時すでに遅く、同年12月、全国の外国学校に閉鎖令が下った。主に枢軸国系のそれが対象とされた。
 この時、存在した日本学校は、サンパウロ州で294校、全国で476校という数であった。ドイツ系は20校、イタリア系は8校であった。
 日本学校の教員数は554人で、生徒数は推定3万人であった。
 なお、文教普及会も、外国人団体に関する規制=外国からの援助禁止=により、事実上、活動不能となった。
 邦人社会は、1934年の排日法で、後続移民は急減、大型投資事業も特例を除いて止まった。それから4年後、今度は、子供を日本人として教育する場を奪われたのである。
 この時の邦人社会の反応を見ると、当時の親たちが、如何にその教育に執着していたかが判る。隠れて続けたのだ。一部で、それが起きた……のではなく、どこでも、そうであった。
 そうまでした理由は、何か? 
 それは「自分たちが尊崇する天子様が統(す)べる、自分たちが誇る大日本帝国へ、日本人として錦衣帰郷するために、子供を日本人として育てる、育てなければならない」という信念……というより、本能からであった。
 当時、パウリスタ延長線ポンペイアに白石静子という7歳の少女がいた。2009年時点で80歳近くなっていたが、サンパウロで元気に暮らしていた。当時の思い出を「日本学校が禁止になった後は、毎日、アッチの家、コッチの家、と場所を変えながら、授業をやりました」と語る。無論、視学官に見つからないためである。
 なお、外国学校が閉鎖されたといっても、法律に基づく私立学校に於ける外国語授業は、まだ可能であった。ただし一日につき2時間以内、教科書は州学務局の許可を得たものを使用……等の制限はあった。邦人が、子供に日本語を教えようとすると、この方法による以外なかった。が、現実問題として、それが出来たのはサンパウロにあった私立の数校に限られた。

 永住・同化論

 一方で、邦人社会には、永住・同化論も生まれていた。論者は、いずれも、いわゆる文化人や有識者、大学生たちである。
 1933年6月、医師の高岡専太郎と元邦字紙記者の安藤潔が、互生会という団体を組織、機関誌『家庭と健康』というパンフレットを発行した。
 高岡は、邦人社会の代表的な医師であり、安藤潔はペンネームを安藤全八といい、いわゆる文化人であった。
 互生会は衛生問題を中心に、農村文化の向上をめざした。『家庭と衛生』の読者は、発行1年後には6千という数になった。当時の邦人社会では驚くほどの多さであった。
 この小冊子は、永住と同化を根本理念とし、将来は邦人社会の社会運動、文化運動の中心機関になるだろう、とさえ予想されていた。ただ、事情あって創刊2年後、廃刊となった。
 が、安藤は、その後も永住同化論を唱え、邦字新聞や雑誌で、その主張を発表、偏狭な日本精神を「のぼせ上っている……」と批判した。が、戦後のことになるが、自身が帰国してしまっている。(つづく)