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森和弘の秘められた過去=勝ち負け抗争と二世心理=(2)=日本に帰る計画白紙に=「立派なブラジル人になれ!」

ニッケイ新聞 2013年5月29日

日本政府の降伏に向けた打診を早々と報じるマニャン紙1945年8月11日付け

日本政府の降伏に向けた打診を早々と報じるマニャン紙1945年8月11日付け

 「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク——」。玉音放送は日本時間の1945年8月15日正午からだった。ブラジル時間でいえば15日午前零時だ。当地ブラジルへの東京ラジオ放送は当地時間15日早朝が最初のようだ。
 しかし、フォーリャ・ダ・マニャン紙8月11日付けを見ると、「米英露中が示す無条件降伏を日本が受け入れ」との大見出しが踊っている。日本政府は天皇制の維持を条件に、降伏を受け入れる覚悟があることを連合国に打診し、それを受けて連合国側がそれを承認するか協議するとの内容だ。長崎に原爆を落とされた翌日だ。
 日本国内では15日に玉音放送によって正式に国民へ伝えられたが、連合国のマスコミはすでに大々的に報道していた。つまり伯字紙読者は、この時点で降伏を予想できた。和弘は15日にブラジル学校の教師から日本敗戦を聞かされたが、父が心配する様子を見ていたから驚かなかった。
 でもゴイチから「すぐに家に戻れ!」との緊急電話が入った時は、「何事か」と思った。まだ水曜であり、通常は週末しか戻らないからだ。すぐにバスに乗り、アラサツーバから南に直線距離で20キロほどのビラッキに夜までに戻った。
 ゴイチはバールを閉めてフロを浴びた後、台所でお茶を飲んでようやく一服した。夜11時、待っていた息子に、目に涙をためながら、おもむろに「日本は戦争に負けた」と言った。「パパイ、そんなことなら僕はとっくに知っている。もうラジオ、新聞で伝えているよ」と言った。
 ゴイチは畳みかけるように、「お前を今日戻らせたのは、お前の将来のことを話したかったからだ。家族で日本に帰ろうと思っていた計画はすべてご破算だ。日本は廃墟のようになってしまった」と声を詰まらせた。
 「うちの家族でブラジル生まれはお前一人。これからは立派なブラジル人になることだけ考えろ、お前の祖国はここだ。ブラジル人として考え、ブラジル人としてしゃべれ。お前は、誰もが認めるような立派なブラジル人になってくれ。家族が誇れるようなブラジレイロになってくれ!」と思いつめたように胸中を吐露した。
 さらに「俺は元気だからまだまだこれから長い間しっかり働いて、ここに骨を埋める」と自分に言い聞かせるように言った。「これを伝えるために、わざわざお前を呼んだんだ」。
 ゴイチは日本の戦況が悪化することを心配したが、終戦ギリギリまで日本の戦勝はありえる——と信じていたのかもしれない。でも、玉音放送を聞いて一気に転身した。
 和弘は「両親はもう日本に帰る気がなくなったんだ。帰っても仕方なくなったんだ」と理解した。「勉強に支障がないように」というゴイチの計らいで、翌朝は8時に始まる中学の授業に間に合うよう、早朝6時にタクシーを呼んでアラサツーバに戻った。
 終戦から1年後——46年7月10日夜7時頃、惨劇は起きた。「夜9時ごろ、ビラッキから電話があって、『すぐに戻って来い』とだけいわれ、すぐにタクシーに乗った。その時、もしかして何か凄く悪いことが起きたのでは、なにか襲撃を受けたのか—との予感がしていた」。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)