ニッケイ新聞 2013年6月4日
事件多発を受けて、7月19日にはサンパウロ州執政官(現在の知事)マセド・ソアレスが勝ち組代表約1千人を州政庁カンポス・エリゼオスに呼んで、直接に説得工作を試みるも無駄に終わった。月末にはパウリスタ延長線のオズワルド・クルス市では市民を巻き込んだ大騒乱に発展し軍隊が鎮圧する騒ぎにまで発展した。まさに〃血塗られた7月〃だった。
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父親の話を和弘が初めて公にしたのは、カンピーナス州立大学のポ語学術雑誌『コン・シエンシア』(以下CCと略)の2000年12月10日号だった。同誌インタビューに答え、「私はこの話をかつて、誰にもしたことがない。コレジオでもUSPでも誰も知らなかったはずだ」と断言している。
当時、刊行されたばかりのフェルナンド・モライス著『コラソンイス・スージョス』の話題で世間が持ちきりだった。その中で森五一殺害事件が詳細に報じられ、世間が知るところとなり、「今さら隠しておく理由がなくなった」とある。
それまで語らなかった理由として、「1908年に移民が始まって以来、40年代までほとんどの歴史家や社会学者は、日本移民はブラジルに利益をもたらさないと言ってきた。文化適応、馴化に関して常に否定的な評価だった。中学3、4年頃、地理の授業中とても胸が傷んだ。だって日本移民について論じる時、常に益のない、むしろ害のある移住という扱われ方をしてきたからだ」と語っている。つまり、日本移民は硫黄のように溶けないという〃黄禍論〃が一般的だった。
事実、州政庁での勝ち組説得工作が失敗に終わった直後、1946年7月23日、アマゾナス州選出の連邦議員ペレイラ・ダ・ルシア氏は憲法審議会に次のような建言をしたと(酒井繁一著『ブラジル日記』(145〜6頁、1957年、河出書房新社)にある。
《奸悪なる狂信の徒の犯し来った犯罪に対して、従来の法的処罰手段が不十分なるのみでなく、彼らは絶対にブラジルの習慣に適応し得ざる者であって、その思想たるや全く我々のそれに反し、西洋文明とは相容れないものであることは、あまねく認められるところである。以上の諸理由により、本議員は「明らかに臣道聯盟なる団体またはその他の組織の指導のもとに、我が国土において犯しつつある犯罪行為を弾圧するに当たって、我が当局の処置に反対したる、また反抗することあるすべての日本人を即刻国外に放逐するため、政府は遅滞なく強硬かつ有効なる手段を講ずることを、憲法審議会を通じ、政府に建言する」。
地方政府の最高権威である州執政官が直接に乗り出しても、まったく改善されない当時の状況は、国政を預かる連邦議員からすれば、堪えがたい屈辱に感じられたかもしれない。日本移民の一部が引き起こした血塗られた事件の数々は、まさに看過できないものだった。
公立学校で学ぶ和弘にとって、勝ち負け抗争というブラジル社会から見て最悪の評価をもたらした事件の被害者の子供、直接の当事者だとは、同級生らには口が裂けても言いたくない気持ちだったようだ。このようなブラジル権威筋の言動を見れば、幼かった彼の心にトラウマが刻まれるのも無理はなかったといえる。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)
写真=ビラッキ、コロアードス、ブラウナという狭い地域で事件が続発した