ニッケイ新聞 2013年6月5日
首都リオデジャネイロ駐在の日本大使石射猪太郎は、政府の要人たちを訪問して、ブラジルの局外中立維持を要望したり、記者会見で同趣旨のことを強調したりしていた。その著『外交官の一生』によれば、
「私が参謀長ゴエスモンテイロ将軍に会見して、中立維持を要望すると、日本大使は急所を心得ている、とリオ新聞が書いた。ブラジルの新聞論調は日本に悪くなかった。真珠湾といい、馬來(マレー)沖といい、素晴らしい戦果なので、その当座どこへ行っても話しがしやすかった」とある。(文中「ゴエスモンテイロ」は「ゴーエス・モンテイロ」、「リオ新聞」は「リオの新聞」のことであろう)
ポルトガル語の新聞は、開戦当初は、日本に好意的で、日本軍が優勢であることを正確に書いていた。
ところが、情勢は直ぐに一変する。
1942年1月15日、リオで汎米外相会議が開催されたが、この会議召集の発表を境に新聞の論調が目立って日本に不利になった。石射は、次の様に記している。
「この会議の数日前、米国代表サムナー・ウェルズ国務次官がブラジル官民の大歓迎裡にリオ入りをし、当夜の記者会見で『会議の目的は枢軸の西半球攻撃の手を封じ、両米州を安泰に置かんとするにある』と第一声を放った。新聞は一斉にウェルズ氏のリオ入りの盛況を報じ、吝(お)しみなく歓迎の意を表した。…(略)…戦況記事は、引続き日本の勝報を伝えたが、見出しが小さくなった。エロー黄色の文字を以て、日本人を侮辱する記事さえ現れて、我々を不愉快にした」
ブラジルの情報機関(新聞、ラジオ)には、米国の工作員が干渉を始めていた、という。
国交断絶
汎米外相会議では、劈頭(へきとう)、ウェルズ米次官が、こう演説した。
「米州諸国に、枢軸外交官がおるのは有害無益だ。彼等がスパイ行為をなし、任国の秩序撹乱工作に従事しているのは証拠歴然だ」
これを皮切りに、米国の主導で、対枢軸国宣戦案や国交断絶案が、論議され始めた。が、アルゼンチン、チリー、パラグアイが、いずれにも反対したため、難航、結局、国交断絶勧告という結論に落ち着いた。
28日、会議最後の議場に於いて、ブラジルのアランャ外相が、ブラジルの対枢軸国への国交断絶を宣言した。アランャは米国寄りの政治家で、あったことは、既述した。
枢軸国人は敵性国人となった。在ブラジルのその大使館初め公館は、すべて閉鎖された。日本の公館でも、屋上の竿頭(かんとう)に翻っていた日章旗は降ろされ、館の正面玄関の上壁に掲げられていた菊の御紋章は外された。邦人社会にとって、この時ほど淋しく孤独感を覚えたことはなかった──と往時を知る人々は回顧する。
邦人23万人は、敵中に孤立したのである。
同日、ブラジル政府より、国内に在住する枢軸国国籍者に対する取締り令が公布された。サンパウロ州の場合、州政府の公共保安局長官から、公報で通達されたが、要旨、次の事項が禁止された。
(1)自国語にて記載せるあらゆる文書の頒布、(2)自国国歌及び歌の歌唱・演奏、(3)自国特有の挨拶、(4)公の場での自国語の使用、(5)公衆に見える場所への自国政府閣僚の肖像の掲揚、(6)当局の許可証なしの旅行、(7)集会(個人の家庭でのそれ、祝祭その他の名目のそれも含む)、(8)公の場での国際問題に関する議論、意見交換、(9)武器の携行、武器・弾薬・爆発物の取引き、火薬の製造(許可を得ている者も含む)、(10)当局への事前届出無しの転居、(12)個人の飛行機の使用、(12)当局の許可なしの航空機による旅行。
次いで1942年3月11日、枢軸国系資産が凍結された。ただ、この凍結令からは産業組合は除外された。これは日系のコチア産組の運動による成果であった。
さらに銀行、商店、工場などの事業体には、政府から監察官が派遣されてきた。これは組合も例外たりえなかった。
不動産の売買は禁止となり、個人の銀行預金の引出しは制限され、団体は閉鎖を命じられた。(つづく)