ニッケイ新聞 2013年6月6日
戦況情報
戦時下──自身の生活問題を除けば──邦人たちの最大の関心事は、日本軍の戦況であった。が、大部分の人が、ポルトガル語の新聞は読まず、信用もしなかった。ラジオに関しても同じであった。
唯一、ニュースが入るルートが東京ラジオ(既述)であった。邦人の間に僅かの比率だが、短波の受信機の所有者が居て、それを聞いていた。戦時中、受信は禁じられていたが、隠れて聞いていた。取締りは厳しい時(所)もあれば逆の場合もあった。
放送内容は口から口へ、あるいは謄写版刷りの印刷物で、伝えられた。それを売って、生活費を稼ぐ者もいた。
東京ラジオで放送される大本営発表によれば、日本軍は無敵ぶりを発揮していた。これが、邦人たちの再移住熱を一段と煽った。「戦争が終わったら日の丸の下へ……」と。大本営発表は、途中からデタラメになるのだが、誰も気がつかなかった。
一方、ポルトガル語の新聞を読んでいる人、ラジオを聞いている人も、わずかながら居た。画家の半田知雄(既出)も、そうであった。
半田は1906(明39)年の生まれで、10歳の時に家族移住でブラジルに渡り、サンパウロ美術学校を出て画家となった。戦時中は年令は30代後半で、サンパウロの、中心街からやや離れた所に、妻子とともに住んでいた。
この半田が、膨大な量の日誌を遺している。その中に戦時中の記録もある。当時の邦人の日々の心理状態を知る上で、非常に参考になる。
「十二月十四日 絵を描いていても戦争のことが気になる」
「十二月十七日 この頃ゆっくり本がよめない。日米戦争開始以来、感情と戦いながら絵をかいているので、夜は頭が働かないのだろう。すぐねむくなってしまう」
人と会えば戦争の話という日々であった。
半田は、ポ語新聞の定期購読はしていなかった。隣家のドイツ人から借りて読んだり、市電に乗って前の席の人が新聞を読んでいると、こちら側の紙面を読んだりした。無論、自分で買うこともあった。それと、友人の河合武夫(コチア産組職員)が自宅で東京ラジオを受信していたので、その内容を聞くために、しばしば訪問している。ポ語の新聞と日本語の東京ラジオの内容を比較しながら、戦況を追っていた。
以下は1942年1月から2月までの日誌の一部である。
「一月六日 当地の新聞が勿論外電としてではあるが、日本軍の進撃ぶりは文字通り悪魔的だ…(略)…と報じている。…(略)…。こんな文字も我々には気持ちよくよめる」
「一月十五日 夕方、電車に乗ってくると、八割迄の乗客は新聞をひろげていた…(略)…すぐ前の人のそれをのぞき見したら、ドイツのことを盛んに悪口…(略)…」
「一月十七日 新聞が盛んに枢軸側の悪口を書き出した…(略)…すべてはアメリカへの忠義立ての記事であろう」
「二月十五日 (河合宅で、シンガポールで英軍が日本軍に降伏した報に接し)私はスッカリ興奮して帰宅した」
筆者は、生前の半田を知っており、この日誌を読む前は(半田さんは、戦前は永住・同化論を唱えたいわゆる文化人で、戦後は逸早く認識派となった。そういう人なら、醒めた目で戦争を見ていたのだろう)と思っていたが、上記の如く、これは違った。ほかの日本人と同様、素朴に祖国の勝利を喜び興奮し、米英への敵愾心を燃やしていたのである。そのことは、日誌の以後の欄にも、しばしば出てくる。
半田も、日本人ナショナリストの一人だったのである。(つづく)