ニッケイ新聞 2013年6月6日
アラサツーバ市の法医学者ロメウ・フェラス医師による島野並治の遺体検死報告には、体の各部に打撲傷を受けて黒ずんだ部位があることを指摘し、「疑問の余地なく、彼はまず、何らかの方法で打撲傷を負った。例えば手、足、棍棒などだ。水ぶくれ、黒ずみなどは明らかに生きている間に形成されたものである」(323頁)と記述している。
その後に、どれが致命傷かも解らないほど、胸部、両肺、心臓などに各種口径の銃弾をあちこちに撃ち込まれたと診断している。
『コラソンイス・スージョス』の著者フェルナンド・モライスは島野ナミデを追撃した警察隊のリーダー、ペドロ・セレイロの息子に取材し、「父はカービン銃の銃床で殴った可能性があると認めた」と明らかにし、モライスは「生きているうちに殴られ、拷問され、最後にメッタ撃ちされた」(323頁)と断定した。
襲撃者もまた、捕まれば警察によって命を奪われる可能性があった大変な時代だった。まして勝ち組襲撃者と同様に血気盛んな負け組青年と警察との混成部隊だ。
公権力と共に行動している限り、どんなに無残な殺し方でも犯罪に問われない——加害者がいつ被害者に入れ替わるか分からない切迫した状況があった。
例えば『移民八十年史』の「サンパウロ州における勝組負組傷害・殺害事件一覧表」(170〜171頁)を見ると、被害者名の後ろには負け組を示す「負」とか「勝」の文字が見られ、「勝」も少なくとも6人が死傷している。うち3人の加害者名が「州警兵」となっており、負け組と官憲との結びつきの強さが伺われる。加えて7月末のオズワルド・クルス市騒乱の際、「勝組40人余、その他10人余」が負傷したと記録されている。
同『八十年史』の「襲撃傷害及び暗殺事件総合数」表でも、負け組被害者数が「66」なのに対し、勝ち組被害者も「43」を数える。これ以外に単に、襲撃実行集団とは何の関係もなく、臣道聯盟の会員であったというだけで治安警察(DOPS)によって投獄された勝ち組は数百人以上といわれる。
勝ち負け抗争は一般に、負け組が一方的に被害を受けたような印象を受ける記述をされる場合が多いが、実情はもっと複雑な時代だった。勝ち組と負け組は表裏一体の存在であり、双方の歴史を合わせてこそ当時の同胞社会の真相が理解できるようだ。
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高校時代だった1948年頃、和弘はクリニカス州立病院を見学する機会があった。USP医学部付属病院として戦争中の44年に新設されたばかり。今ほど大きくなかったが、当時としてはすでに立派だった。漠然と「法科」と思っていた和弘は、「そこで困っている患者がたくさんいる姿を見て『ブラジルにはもっと医者が必要だ。医者になる』と決心した」と初心を振り返る。
50年3月に古橋広之進ら「フジヤマの飛び魚」一行、51年1月には東海林太郎ら戦後初の芸能団一行も来伯し各地を回ったが「日本が負けた」とは明言しなかった。戦後5年が経っても、まだそんな時代だった。
和弘はUSP医学部を1956年に卒業した。「僕が卒業した頃、日系人の医者は数えるほど、せいぜい30、40人ぐらいだった」。その後、モジ市のイピランガ病院の創立に参画し、外科医としての道を歩み始めた。社会を良くすることに関心を持ちつづけ70年にモジの法科大学にも入りなおした。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)
写真=島野並治の死を報じるジアリオ・ダ・ノイチ紙46年10月10日付け