ニッケイ新聞 2013年6月7日
「医者とは違って、社会の状況を深く理解する視線が弁護士にはある」と目覚め、モジの法科大学に通い始めた頃からスザノ市議を3期務め、その時期に地元日系社会とも接触を深め、副市長を3期(76—82年、97—00年、01—04年)も務めた。
和弘の心底には、死んだ五一から言われた「お前は立派なブラジル人になるんだ」という言葉が今も深く刻まれている。日本勝利を疑わなかった愛国者だからこそ、五一は敗戦を認め、腹を決めた時、子供にそういったのだろう。和弘に限らず、いまの80歳前後の二世の多くは、多かれなかれそんな少年時代を過ごして人格形成している。
遠い子供時代を振り返りながら、和弘は「トッコータイだがなんだか知らないが、父を殺した奴等もきっと騙されたんだと思う。別にお金をもらってやったとか、そういう行為ではない。彼らも客観的な状況が分かっていなかった。ただ日本精神を徹底的に注入され、日本が負けるなど想像も出来なかったんだ」と推測する。
二人の父の死に関しても「それが運命だったと、殺した者を憎んでもしょうがないと考えるようにしている。そういう時代を利用して金儲けしようとした奴等、裏で操った奴が一番悪い。日本精神を純粋に信じた若者がアプロベイタされてしまった。本当に悪いバンジードは戦勝を煽って、円売りやら日本行きの切符とか売ったもの達だ」と言い切った。
そして「今、日系人はブラジル国家建設の一翼を担う存在と呼ばれており、自分が日系子孫であることをとても誇りに感じる。日本人の息子であると胸を張れる」(CC)という和弘の言葉には、深い安堵感がある。百周年で盛大に一般社会から祝われて、傷心を一番癒したのはこの世代かもしれない。
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和弘によれば、実は養父はドイツ製サブマシンガンを護身用に持っていた。「五一は以前から身の危険を感じていた。だからパラベラム弾を発射する特別な銃を持っていたが、事件の前の晩、たまたま寝室の方に持っていってしまい、手元になかった」。パラベラム弾は第2次大戦以降、サブマシンガンの主流になった弾丸だが、当時ブラジルでは珍しかった。
「パラベラム」はラテン語の諺「Si Vis Pacem, Para Bellum」(平和を望むならば戦いに備えよ)の後半部分に由来する。戦いは戦いを呼び、殺戮はさらなる殺戮に発展するという血塗られた歴史を支える哲学だ。
和弘の場合、五一が殺されたことで、心の奥底にこめられた平和の〃弾〃があった。日本向きの愛国者が持つ大和魂という〃銃弾〃は勝ち負け抗争の中でテロ事件に結実した。だが和弘のような二世の場合、その〃魂〃は向きを変えてブラジル社会の方へ発射され「ブラジル人よりブラジル人らしいパトリオッタ」となった。
向きを変えた愛国心は凄まじい勢いを生じ、二世の背中を押して一気に社会上昇の階段を駆け上がらせた。向きは違えどもどちらも〃愛国精神〃、大和魂の裏返しだ。
09年6月、和弘は旭日双光章を受勲した時、本紙取材に「親父に良いブラジレイロになれましたと報告できる」との喜びを語っている。〃向きを変えた大和魂〃が、日本政府の勲章によって報われた瞬間だった。
二世医師の先駆けとしてブラジル社会に貢献してきた自負を込め、「今じゃあ、日系人の医者も何千人でしょ」と日系史を振り返り、満足げに目を細めた。(終り、深沢正雪記者、敬称略)
写真=森和弘さん