ニッケイ新聞 2013年6月11日
在日の学生の多くは韓国の民主化、祖国の統一を懸命に模索していた。「北であれ南であれわが祖国」という思いを彼らは抱いていた。分断国家が統一され、確固たる国家が建設されれば、日本人の差別から解き放たれると考えている在日も少なくなかった。
帰化している美子に身の置き場がないのは当然だった。その話にもはや与する気持ちはなかった。何も答えるつもりもなかった。
背後から何かが飛んでくる気配がした。背中や頭にあたって、節分の豆のように玄関に散乱した。白い錠剤だった。
「私は希望に満ちた未来なんかいらない」
二階から刺々しい声がした。
「だから別れたんだろう。何が不満なんだ」児玉は振り向きもせずに言った。
「一緒に生きてほしいとも思わない」
「だからブラジルには一人で行く」
「私が共有してほしいのは希望ではなくて絶望よ。共に生きることではなくて、一緒に…」
児玉は最後まで聞かずに、逃げるようにして外に出た。最後の言葉だけは聞きたくなかった。
混沌
「児玉、大丈夫、どうしたの……」
テレーザに揺り動かされて目を覚ました。寝汗をきか、下着は水をかぶったように濡れていた。
「シャワーを浴びてきなさい」
数組の着替えはテレーザのアパートに置いてあった。まだ夜は明けていない。
「怖い夢でも見ていたの」テレーザが聞いた。
うなされて、何かをしきりに叫んでいたらしい。日本語がまったくわからないテレーザに、児玉のうわ言が理解できるはずもなかった。
夢は思い出せる。ブラジルに来てから、同じ夢をよく見た。夢の中の児玉はまだ日本にいた。部屋のインテリアはすべてが黒で、ベッドのシーツまで黒だった。隣に寝ているのは朴美子だ。美子が苦悶の表情を浮かべて、シーツの上に嘔吐を繰り返していた。
口からは糸を引く唾液が流れ落ちている。泡立った胃液と一緒に半分溶けた白い粒がシーツの上に吐き出されていた。
「お前、あれを飲んだのか」
児玉は叫び、近寄ろうとするが体が動かない。
美子の手には薬瓶が握られ、蓋を取り、残った錠剤を口に運ぼうとした。いつもそこで目が覚めた。
サンパウロの生活にすっかり馴染み、一日おきに夜は飲み歩いていた。週末はテレーザの家に泊まったが、それ以外は明け方にトレメ・トレメに戻った。数時間ベッドに横になり出社した。編集長が椅子に座るのを待って、児玉は取材を口実にトレメ・トレメに戻って爆睡した。夕方四時か五時頃に目を覚まし、サンパウロ総領事館、国際協力事業団のオフィスを回り、新聞社に戻った。
自分の机に向かうが、書く記事が毎日あるはずがない。児玉は七時になるのを見計らって帰宅した。その途中にある安いレストランで食事を摂り、少しベッドに横になってから夜の街に繰り出して行った。
マリーナとの会話で、ポルトガル語が話せるようになったのも理由の一つだが、何度も同じ夢にうなされて、眠ることが怖くなっていた。サンパウロに着いた直後から、美子の夢を何度も見た。
いつものように週末はテレーザのアパートに泊まった。児玉はコンドームを使ったり、使わなかったりしていた。そのことでテレーザから咎められたことはなかった。
「おいしい飴玉をなめるのに、包みを取らないままなめる子はいないでしょ」
そんな冗談をテレーザは笑いながら言った。しかし、その一方で彼女は妊娠や病気には細心の注意を払っていた。客を取る時は必ずコンドームを使用していた。
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