岸本昂一の知人の山口家は、印刷業を営んでいたが、ある夜、刑事たちがピストルを手に、家宅捜索にやってきた。主人は外出中、子供は不意の闖入(ちんにゅう)者に怯(おび)え、母親に小さい身体を摺(す)り寄せオドオドしている。刑事の一人が、机の引き出しに入れてあった金を取り出した。母親が駆け寄り「イケマセン。それは私たちの命を支えてゆく金ですから、持っていってはイケマセン」と必死に制止した。刑事は手にした金を投げつけ、家中を荒らしまわって引き上げて行った。それを一晩中かかって片付けると、翌日またやってきて、かき回しゴッタ返して出て行く。結局、これを3回やった上「4日以内に立ち退け」という命令書を送りつけてきた。
一家は、泣く泣く印刷機や家財を投売りして、去って行った。
ドイツの潜水艦によるブラジル商船の撃沈が続いていた。これに報復する様に、リオで3月12日、約200人の暴徒が繁華街のドイツ人商店を襲撃、横浜正金銀行リオ支店に対しても、数十分に渡り投石を行い、窓ガラスの大半を破壊した。
『リオデジャネイロ州日本移民100年史』によると、この日、リオの別の場所で、日本人の住宅や職場数カ所が、襲撃を受けた。
その内の一軒の洗濯店は、家主のユダヤ人の事前の通報で店のシャッターを閉めていたので、投石されたが被害はなかった。
別の地区では、居住区の日独伊人の住宅や店が襲われ、イタリア人の靴屋はショーウインドーを壊され、中の商品を盗まれた。日本人の家は日頃懇意にしていた軍人が駆けつけ、ピストル片手に暴徒を制止してくれた。
もう一軒の邦人住宅は、救援のため憲兵の出動を求めた。が、憲兵が駆けつけた時は、暴徒は立ち去った後で、窓ガラスは割られピアノは傷つき、家族はショックで顔
色を蒼白にしていた。
一方、邦人25人が中央警察署に拘引され、留置された。25人は職業も社会的地位もバラバラで、どういう規準で選ばれたのか、全く不明であった。
その一部はグァナバラ湾のイーリァ・ダス・フローレス(フローレス島)に送られた。ここには移民収容所があり、その施設が利用された。ドイツ人、イタリア人が一緒であった。
この人々は、数日から十数日、長い場合2、3カ月、拘留された。
サンパウロでは、迫害はますます激しくなり、拘引・留置は200人を越え、新聞は毎日のように「またも日本人間諜(かんちょう)を捕縛(ほばく)す」といった類の記事を掲載していた。
1942年3月、半田日誌。
「十八日 皆、理由なんかない。何か日本人社会で主きをなしていそうな人間をつかまえて、第五列だとかなんとかこぢつけてしまう。…(略)…しゃくにさわる」
「二十四日 河合君が…(略)…私に示したのは…(略)…リオのジョルナル・ド・コメルシオの日曜版であった。それには、日本人の第二世がブラジルの政府にあてて、日本人の内情、特にサンパウロ市内に於ける軍事組織について、こまごまと内通した手紙であった…(略)…これは巧妙なデマだなと感ずる…(略)…」
岸本も、日本人の諜報工作に関する荒唐無稽な記事を幾つか紹介した後、こういう記事の出所はアメリカ領事館であったと記している。(領事館は総領事館のことであろう)
サンパウロ州の治安機関には、米英の領事が入り、彼らの諜報機関からの情報をもとに、指令したり、助力したりしている……とも岸本は記している。(つづく)
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