ニッケイ新聞 2013年6月12日
3月21日、東京ラジオが、ブラジル政府に警告を発した。
迫害に関しては、かなり詳しいことが調査され東京に伝わっていた。
警告は、日本人に対する警官の無法行為を種々具体的に挙げているが、彼らが家宅捜索の際、強奪した金額が計二十五万円に及ぶということまで告発している。
この警告は最後を「日本政府は、ブラジル政府に厳重抗議したにも関らず、回答がない。依って重大決意をする。今後、最悪の結果を生ずるとも、その責任はブラジル政府が負うべきである」と結んでいた。
これが効果があったのであろうか、当時を知る人によると、一部地方では、迫害は途中から止んだという。もっとも、この人は、ゼッツリオ・バルガスが自主的にそうしてくれた…と思い込んでいた。
警察は、多くの邦人をスパイ容疑で、拘引・留置したが、一向に証拠は上がらなかった。当然のことで、邦人社会に諜報組織などは存在しなかったのである。
刑事たちは、次第にダラけて来て、容疑者を留置したまま放置する様になった。釈放しなかった理由は不明であるが、背後の(米英の)工作者への体裁をつくろうためであった、と仮定すると、納得が行く。
迫害(Ⅱ)
迫害が起きたのは、サンパウロやリオだけではなかった。地方でも起きていた。
サントス─ジュキア線の沿線では、沖縄県人が約千家族、バナナ栽培などを営んでいた。ここで、冤罪による被害が相次いだ。
以下、手記『旋風吹き荒むジュキア線』の一部要旨。
3月8日、ビグアの花城清長宅へ、突如、数人の刑事が門前からピストルを乱射しつつ入ってきた。子供を含めて家族は失神せんばかり。花城が、わけを聞くと「お前は、日本で軍籍にあった由。取り調べる」と家宅捜索を始め、家具を引っくり返し、めぼしい品物から写真帳、古い小学読本まで没収、さらに花城をサントスの警察まで連行、留置した。24時間、飲まず食わずであった。留置所の中には“先客”としてドイツ人がいたという。花城は署長の取調べ後、帰宅が許された。
このほか、16歳で移住してきた者を、日本で陸軍大佐であったと逮捕したり、バナナを山腹から降ろすために架設したワイヤーをアンテナだといって調べたり、写真機の所有者をスパイだと家宅捜索したりした。
一邦人の家宅捜索では、ピストルを出せと要求、無いと答えると、殴る蹴る、果ては臀部(でんぶ)に短刀を突き立て、警察に引っ張り、数日、留置するという残虐さであった。
3月27日、当時のマット・グロッソ州々都カンポ・グランデの近郊セローラ植民地の主だった邦人が、機関銃で武装した兵士の一団に強制連行され、2、3週間に渡り留置され、訊問を受けた。
既述の「追討ち」の項で一寸登場したパウリスタ延長線のポンペイアに居った白石静子は、当時11歳であった。悦子という8歳の妹がいた。以下は、二人から2009年に筆者が聞いた話である。
静子は、当時ポンペイアには小学校(4年制)しかなかったので、マリリアの中学校へ通っていた。(いずれもポ語によるブラジル学校)
戦時下に入ると「悪い生徒が待ち伏せしていて、日本人を殴りました。怪我をした子もいました」という。
1時間くらい汽車に乗って行かねばならないこともあり、静子は学校へ行くのを断念した。
悦子は小学校を3年で辞めた。叔母の橋本多美代(2009年現在89歳)も、こう語る。
悦子は、いつも苛(いじ)められて、学校から泣いて帰ってきました。私が付き添って行くようにし、雨が降っていなくても、傘を持たせました」(つづく)