ニッケイ新聞 2013年6月13日
橋本自身、夜、家に石を投げられたり、昼間は「オー、ジャポネス……云々」とブラジル人に罵(ののし)られたこともある。「私と近所の佐藤さん、国井さん、あと二人、警察へ引っ張られたこともあります」という。よその日本人の家が押し入られ、モノを奪われたという噂(うわさ)も耳にした。
マリリアの郊外の昭和植民地で、大きく農業をやっている親戚がいて「大事が起こる前に、疎開しなさい」と言ってくれたので移った。その時のことは、悦子の記憶では、こうなる。「日本人が殴られた。危ない、殺される、と年寄り、女、子供は何家族か、まとまって逃げることにしました。私は、身につけられるものは全部つけました。皆で一旦マリリアへ行き、知り合いの時計店に泊まりました。床にコルション(マット)を置き、毛布だけで寝ました。ひとつのコルションに何人もの割合で寝ました。次の日、カミニョン(貨物自動車)に乗って、昭和植民地へ行きました。倉庫の様な所で暮らしました。3家族が一緒でした」
半田日誌は、1942年5月23日の欄に、アラサツーバの近くの町とアララクアラ線の何処かで起きた警官による日本人殺害事件を記している。
前者は、警官が、ある日本人が退役下士官であることを知り「スパイだと白状しろ」と散々暴力を振るい、死なしてしまったという話。
後者は、警官たちが日本人親子を撃ち殺したという話。最初、その警官の一人が家宅捜索だと言って押し入り、現金を発見、それを持ち去ろうとした。主人が、それを阻(はば)もうとすると、撃ち殺し、それに憤怒した息子が銃を取り出して警官を追おうとすると、これも射殺したという。
いずれも伝聞による記述であるが、これに近いことがあったのであろう。
以上の様な迫害は各地で起きた。が、調査されたことがないため、全貌は不明である。
1942年6月9日。半田日誌には「ミッドウエーの海戦で、アメリカは大勝利したかの様なことを新聞やラジオが報じているが、日本からは何の報道もない。ちと不安だ」とある。
数日後、東京ラジオは大本営のごまかし的な説明を伝えたが、半田の「ちと不安だ」の一語は的中していた。開戦わずか半年、このミッドウエイの戦いで、日本軍不敗の神話は崩れていた。
そうした中、7月3日、石射猪太郎大使、原馨サンパウロ総領事、その他の公館館員、日本商社の社員(いずれも現地採用者を除く)が、リオから交換船で帰国した。乗船したのはブラジルだけでなく、南米各国から集った約300人であった。
移民は含まれて居なかった。彼らは迫害の中に置き去りにされた。その時の帰国者の残留者に対する配慮の薄さが、移民の心に何十年経っても消えぬ不快感を残すことになる。
反枢軸国感情、爆発
1942年8月15日前後、ブラジル商船がブラジル北部の大西洋上で次々、ドイツの潜水艦に撃沈された。これで反枢軸国感情が爆発、邦人社会にも爆風が襲った。
8月17日、カンポ・グランデで市民の暴動が発生、ある邦人の住宅と店舗を焼討ちにした。
8月18日、サンパウロの中心部の大広場プラッサ・ダ・セーに大群衆が集り、大騒ぎをし、近くのコンデ街の日本人の商店や家屋の屋根瓦、窓、ネオン・サインに投石、破壊した。
同日、ベレンでも、暴徒が枢軸国人の家屋を襲撃、放火・暴行した。治安当局は、枢軸国人を日系のアカラ植民地へ収容した。
カンポ・グランデでは不穏な空気が続き、邦人のバンデイラ植民地では、野菜の出荷を中止した。これには、同地の陸軍師団が困り、騎兵を派遣して荷馬車の護衛に当らせた。以後、それが1年続いた。(つづく)