ニッケイ新聞 2013年6月13日
テレーザは冗談のつもりなのだろうが、児玉は血の気が失せていくような気分だった。うなされながら朴(パク)美子(ミジャ)の名前を叫んでいたのだ。
それを知って以来、トレメ・トレメで寝ていても、うなされ夜中に飛び起きてしまう。午前二時、三時に目が覚めると、夜が明けるまで一睡もできない。児玉は仕方なく、一階にある二十四時間営業のバールで酒を飲んだ。
その時間帯になるとボアッチで客が取れなかった女たちが、カウンターで食事をしたり、酒を飲んだりしていた。
「ジャポネース、一緒に踊らないか。あなたのサンバは最高だ」
毒々しい化粧が半ば落ちかけた女が言った。ミッシェルで時々顔を見かけるが、話をするのは初めてだった。
カウンターで国産のオールド・8のロックを注文した。彼女が児玉の横にすり寄ってきた。名前を聞くと、「サンドラ」と言った。
「一人なの?」
サンドラは胸の谷間を児玉に押し付けるように聞いた。
「そうさ。一人だよ、君は」
「見ての通りよ」サンドラは自嘲気味に笑って見せた。「たまには違った女と寝てみたらどう?」
「金がないから、また次の機会にするよ」
ミッシェルでこう言えば、男にその気がないと判断して他の客を探し始めた。しかし、サンドラは声を出して笑った。
「金がないのはわかっているよ、ジャポネース」
サンドラが説明してくれた。トレメ・トレメで暮らしているのは、男も女もファベイラ(スラム)暮らし間近の貧乏人ばかりで、金を持っている住民は皆無ということらしい。
「ジャポネースは大方いい暮らしをしているのに、こんなところで暮らしているジャポネースはかなりの貧乏に間違いない。私だけじゃなくて、皆そう思っているさ。あんたから金を貰おうなんと思っちゃいないよ」
児玉は二杯目を注文した。
「なけなしの金をはたいてサンドラにおごるよ」
サンドラは声を上げて笑った。「オブリガーダ(ありがとう)。親切に感謝するよ」
二杯目のウィスキーを飲み、部屋に戻ろうとすると、誘っていないのにサンドラもついてきた。エレベーターで十三階に上がると、サンドラもそのまま部屋に入ってきた。入るなり、部屋の様子を見て「ノッサ」と驚きの声を上げた。
部屋の窓にカーテンはなく、窓際には紐が張られ、カーテン替わりに下着やバスタオルが干されていた。あるのは壁際に置かれたセミダブルのベッドと、ベッドの下に置かれたトランク二つだけ。
ソファもなければテレビもない。
台所には冷蔵庫もなく、調理器具はフライパン一つに、数枚の皿とコップ、フォークとナイフ程度しかなかった。
「ジャポネース、あんたホントに貧乏なんだね」
サンドラは驚き、呆れ返った。
ただ部屋にはまだ手を付けていないウィスキーやブランデーが壁際に並べられていた。日系人の催し物の告知や、各地の日系人会の動向を記事にしてもらおうとやってくる日本人会の役員たちは、編集部の手土産に酒を持参した。中には日本のウィスキーやスコッチウィスキー、フランスやポルトガル、イタリアのワインもあった。仕事が終わり、編集部で飲む時もあったが、置き場に困るほど溜まったところで編集部員に分けた。
それを持ち帰っているうちに、半年足らずに二ダースほど手つかずのウィスキーが並んでいた。サンドラは一本一本手に取って確かめていた。
「開けてもいい?」
サンドラが手にしていたのは、ジョニーウォーカーのブラックラベルだった。
「氷はないけど、飲みたければ、どれでも好きなやつを飲んでくれ」
蓋を開けてコップに半分ほど注ぎ、一口ずつ味を確かめながら飲んでいた。
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