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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(23)

ニッケイ新聞 2013年6月14日

 8月21日、サンパウロで、宮腰千葉太(前海興支店長)ら、邦人社会の著名人多数が拘引・拘留された。警察の話では、同じ日本人の密告であったという。
 8月22日、遂に、ブラジル政府がドイツ、イタリアに宣戦布告をした。
 9月17日、パラナ州南部パラナグア港アントニーナ付近一帯の枢軸国人(主に日独人)30家族が、暴徒に襲撃され、略奪、レイブなどの被害を受けた。
 1942年9月、半田日誌。
「二十二日、野村さん宅へ行った。…(略)…野村さんもスッカリ良い民族主義者だ。『日主だの伯主だのという教育論は全く必要なくなった。日本人の子供はどこまでも日本人であるより仕方ない』と言っていた。…(略)…子供を日本人として育てることに努力しているらしい」
 「三十日 在伯同胞に対するブラジル政府のあつかい方に日本政府の抗議があった…(略)…ブラジルの新聞がそれを書きたてた。日本政府はブラジルを脅迫する!威カクされているブラジル!…(略)…等の見出しで」
 野村は、既述の野村忠三郎のことで、戦前、文教普及会事務長として、伯主日従主義の教育方針を打ち出したことがある。
 香山六郎の『移民四十年史』は、12月、奥地で逮捕された日本人150余人が、サンパウロへ送られてきたと記している。
 1943年3月。
 サント・アンドレーの瑞穂(みずほ)植民地で、邦人家族の追い立て事件が発生。ある米国人による土地横領を狙っての工作であった。入植者は頑強に拒否、守り抜いた。
 同じく3月、岸本昂一が逮捕された。暁星学園の──働きながら学んでいる若者たち40余人を集めての──日曜礼拝を始めようとした時だった。8名の刑事が裏口から雪崩れ込んできた。宗教活動を含めて集会は禁止されていた。岸本はDOPS、通称オールデン・ポリチカへ連行され、その5号室に留置された。
 DOPSは、州政府公共保安局に属する警察組織で、直訳すれば、政治・社会保安警察となるが、日本の昔の特高に当たる。枢軸国人取締り令違反やスパイ容疑で逮捕された人々は、一旦ここに拘引・留置され、後、釈放されるか別の勾留施設に移された。
 岸本が入った時、5号室には、15人の邦人が押し込められていた。が、すべてが冤罪か、とるに足らぬ微罪であった。
 岸本書によると、その中に、榛葉(しんば)隆咏(りゅうえい)という真言宗の開教師がいた。彼は前年の3月スパイ容疑で逮捕された。この時、ポ語各紙は大々的に写真入りで報道したが、例えばフォーリャ・ダ・ノイテ紙(1942年3月18日)の記事は、要旨次の様な内容であった。
 榛葉は1928年、一農業者として渡伯、38年僧侶となり、法衣を纏(まと)って宗教活動をしていたが、その費用は日本政府によって賄(まかな)われていた。彼は東京に警視総監や宮廷参議官の兄弟が居り、その兄弟に宛てた手紙により、当人の行動がブラジルにとって驚くべき有害、危険なものであることが判明した。該書簡には、こういう言葉が述べられている。「ブラジル政府並びに国民は、枢軸国人に対して敵対的態度を示しているが、殊更日本人にそうである。我々の新聞、雑誌の発行を禁じ、その他あらゆる迫害と屈辱を強圧なる方法で与えた。そのため日本人は非常なる困難に直面し、幾多の悲劇が起こりつつある…(略)…自分は、ブラジル政府が吾人並びに吾が同盟諸国人に対して苛酷なる方法をとったことを怪しまない。なんとなれば、この国の人間たるや、時代遅れで野蛮で無智で、北米合衆国の膝下(しっか)で奴隷的に生きる民だからである」(つづく)