ニッケイ新聞 2013年6月15日
日本スペイン交流400周年の祝賀のため皇太子さまがマドリードを訪問されているが、この交流の先駆けとなったのは仙台城主・伊達正宗が派遣した「慶長遣欧使節団」の正使・支倉常長であった。サン・フアン・バウティスタ号に三浦按針ら180名らと乗り組みスペインのフェリペ3世とローマ教皇パウルス5世に謁見している▼支倉常長は石巻の月の浦を出航してから7年後の元和6年(1629年)に帰国しているが、この時には既にキリスト教の弾圧が始まっており、2年後に死亡している。支倉が持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は国宝に指定されているが、この「遣欧使節」が影響したのどうかは、よく解らないけれども、宮城県と岩手県境の辺りには,所謂—「隠れキリシタン」がかなりいる▼支倉常長の紹介で伊達正宗の家臣となり岩手県旧三沢市に1200石で召抱えられたキリシタン武士・後藤寿庵がおり、新田開発のための「寿庵堰」があるし、その墓は近くの宮城県旧米川村(登米市)にあり、この一帯には「隠れ」が多い。農家の茅葺の屋根裏には仏像を象ったようなマリア像が飾られ、村人らは「観音さま」と崇拝していたとされる▼こんな背景もあり、戦後になると旧米川村や錦織村(登米市)にはカトリック教会が設立されたが、あの当時から既に400年もの月日が流れており、余り熱心な信者がいないの風評も流れるが—注目したいのは、徳川家光によってキリシタンが禁止され長崎や福岡には「隠れ」が明治まで続くが、東北の貧しく鄙びた寒村にも、カトリックは厳然と生き続けていたことにも、もっと目を向けたい。(遯)