ニッケイ新聞 2013年6月18日
サントス追い立て
1943年の7月8日、サントス市内の枢軸国人に、突如、立ち退き命令が下った。
なお、ここで枢軸国人と記したが、資料類は日独人と記しイタリア人を外しているものもある。もともと、イタリア人は比較的、寛大に扱われていた。
立ち退き命令が出たのは、その直前、ブラジルとアメリカの商船5隻が、サントス出港直後、ドイツの潜水艦に撃沈されたためである。魚雷が次々命中、物凄い火柱が天に向かって吹き上げ、轟(ごう)音が響いた。その様は壮絶そのものであった。翌日には、海岸に波で打ち上げられた船員の死体が幾十も累々(るいるい)…という凄惨(せいさん)さであった。
撃沈は、サントスに潜むスパイが、無線で、商船の出港を潜水艦に知らせたためと疑われ、そのトバッチリが、日独住民のすべてに来た。立ち退き命令は急で、住宅や職場に警官がやって来て、何時何分までに駅に行き汽車に乗れと命じた。家や家具、仕事のための施設や車両、道具…すべて、そのまま放置しなければならなかった。
路上で捕まり「すぐ駅へ行け」と命じられた者もいた。
街は、銃剣を持った州警兵が駆け回り、市民の喚声が上がり、車輪が軋む音が響き、騒然となった。
駅からは何度かに分けて、汽車に乗せられ、サンパウロ市内の移民収容所に送られた。その後、サンパウロに寄寓(きぐう)先のある者は、そこへ行くことを許されたが、無い者は再び汽車に乗せられ、内陸部へ追い払われた。サントスへ戻ることは禁止された。
立ち退きを命じられた人数については、日本人4千人、ドイツ人千人、内陸部へ追われたのは日本人2千人、ドイツ人5百人──とする記録もあるが、別の数字をあげる資料もある。
この追い立ての折、サントスに居った高柳清(当時20歳。2010年、87歳時に聞き取り)は、こう語る。
「私はコチア産組のサントス倉庫(事業所の意味)に勤務していたが、警官がやってきて、外国人鑑識手帳を取り上げ、今日の5時の汽車に乗れ、手帳はその時に返してやる、と……。二世の職員はブラジル国籍所有者だというので、対象外に置かれた。私は汽車に乗せられサンパウロへ来た。が、収容所がすでに一杯で入れず、汽車の中で一晩過ごした。翌日、組合本部に連絡をとり、当時組合に居った──監察官として政府から派遣されてきていた──カピトン(大尉)に迎えにきてもらい出た。収容所の中は大変な混乱状態で、バラバラになってしまった家族もあった」
バラバラになったのは、サントスで、最初、警官が家族の構成員に別々に会い、異なる汽車に乗る時刻を指示したケースがあったため起きた。収容所で会えた家族もあったが会えぬ家族もあった。収容所から内陸部行きの汽車に乗せたときは「2時間以内には降りるな、後は勝手にせよ」という調子であった。自然、何処に行ったか判らなくなってしまったのである。
追い立てられた人々が、サントスに残した財産は、タチの悪い住民に奪われた。
この騒動は、ジュキア線沿線の邦人たちにも影響した。沿線の住民にも立ち退き命令が下る、という情報が故意に流され、動揺した邦人たちが、財産を捨て値で売り始めたのである。これを姦策(かんさく)である、と気づいた一日本人が自主的に同胞の間を廻って中止させた。
情報を流し、財産を買い集めていたのは、地元の区長、駅長、警官などであった。ある区長は「近く立ち退き命令が出るので、財産目録を出せ」と邦人に要求していた。前記の姦策であると気づいた人が、命令が出る根拠を問い詰めると、新聞で知っただけで確実性は不明……と無責任極まる返事であった。判っただけでも、彼は既に時価1千クルゼイロスの豚を、300クルゼイロスで買っていた。(貨幣の単位は、レースからクルゼイロスへ改称されていた)
結局、沿線に立ち退き命令は下らなかった。(つづく)