ニッケイ新聞 2013年6月19日
マリーナはウィスキーの空瓶が散乱し、埃だらけの部屋を見て、言葉を失っていた。
「ありがとう。久しぶりに食事らしい食事をしたよ」
児玉はデザートのマンゴーを頬張りながら言った。
「児玉さん、このアパートは日本の大学を卒業したあなたのような人が住むところではありません。一日も早く出た方がいいと思います」
「でもパウリスタ新聞の給料が安くて、こんなアパートしか住めないんだ」
「コンセレイロ・フルタード街やエステダンテ街には、日系人が経営している安いペンソンがたくさんあります。そちらに移った方がいいですよ」
マリーナはトレメ・トレメを毛嫌いしていた。
「ここに入ってくるのを誰かに見られるのではないかと気が気ではありませんでした。私もそうした仕事をしていると思われるから」
確かに女性の住民は売春を生業にしている。
「児玉さんの話は南伯農組の人たちには知れ渡っています」
「なんて?」
「毎晩、ここの女と遊んでいるって」
南伯農組に穀物を運んでくるトラックの運転手の中には、トレメ・トレメで女と寝てから、地元に帰っていく者もいるらしい。その運転手から組合に噂が広がっていた。
「サンパウロでも最低の女たちが暮らしているところです。彼女たちに責任があるわけではありませんが、親から捨てられたのも同然の生活をしてきた女たちで、一日も学校に通ったことがない人ばかりです」
マリーナの説明を聞いて、合点のいくこともあった。
「どうして字が書けるのに、ポルトガル語がうまく話せないの?」
サンドラが真顔で聞いてきたことがあった。熱を出している児玉を見て、一瞬戸惑った様子を見せるが、看病をしようとはしなかった。サンドラには自分が看病された経験などないのだろう。
「どんなに貧しくても、私たちジャポネース(日本人)は正直に生きなさい、日本人の誇りを失ってはいけない、祖父母や両親からそう聞かされて育ちました。だからトレメ・トレメの中には日本人はいないはずです。私はお話しした通り、小学校しか出ていませんが、でも日本人の血が流れています」
児玉はマリーナの言葉を聞き、ベッドから身を起こして、マリーナの顔をまじまじと見つめた。
「日本人の血って今、言った?」
「ええ、言いました。祖父母も両親も日本人、私にも日本人の血が流れています」
「ジョゼとリタの子供はジャポネースなの、ブラジレイロになるの」
「甥のヒカルドのことですね。もちろんジャポネースでありブラジレイロです」
児玉は訝る表情を見せた。
「祖父ちゃんや祖母ちゃんは日本人の血が半分になるとか薄くなるとか言いますが、そんなことあるわけがありません。ジャポネースは百年経とうが、二百年経とうがジャポネースです。肌が白くなろうが、黒くなろうが、子孫はジャポネースです」
マリーナはこう言って帰って行った。
マリーナは「民族の血」どころか肌の色さえ気に留めている様子はなかった。
その夜、児玉は手紙を書いた。書かずにはいられなかった。
〈 朴美子様
サンパウロに来てから早いもので半年が過ぎました。大学の方はいかがですか。韓文研には馴染めたのでしょうか。日本に帰化している君のアイデンティティがいかなるものなのか。どこに辿りつくのかわかりませんが、国籍と民族、在日韓国人二世のアイデンティティ、納得のいくところまで自分探しをするしかないのでしょう。突き放しているように聞こえるかもしれませんが、日本人の血が流れている私には、もはやこう言うしかありません。(つづく)
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