ニッケイ新聞 2013年6月21日
以下、再び憩の園の聞き取り調査より。
▼男性Y「サンパウロに居ましたが、禁足されたくらいで、幸せな方でした。戦争のために苛められたことはありません。ただ、カデイア(留置場)に入れられなかったのは、近所でも、私と他2、3人でしたネ」
▼女性A「リオに居ました。そんなに酷い目には遭わなかったです。調べに来た人が写真か何か見て遊んでいましたが、何も悪いことなんかしなかったです」
▼男性U「私の住んでいた処は(周囲のブラジル人が)日本人に好感を持っていてくれたので大丈夫でした」
▼女性A「当時はコチアに居りました。自分の周りでは、何もありませんでした」
▼男性T「戦争中は、ノロエステ線カフェランジアで店(洋服仕立て業)を開けていました。迫害や嫌がらせといった目には全然遭いませんでした」
パウリスタ延長線マリリアは、日本人の大集団地であったが、戦時中は迫害めいたことは殆ど起こらなかった。これは市長が、この地に対する日本人の功績をよく知っており「マリリアは日本人がつくった。その日本人に無法なことをしてはならない」と理解があったためという。当時そこに住み市長を個人的に知っていた人の話である。
日本人を保護したブラジル人も
日本人を保護した心あるブラジル人も居た。岸本書は、次の様な話を紹介している。
ノロエステ線ペナポリスの植民地で、一入植者が、ある経緯から別の入植者たちに恨みを抱き、捏造(ねつぞう)した告発を警察にした。(いずれも日本人)その 告発の中に、警察署長の暗殺を計画しているという部分があった。ために13人の入植者が拘引された。13人はサンパウロのオールデン・ポリチカへ送られた。そのまま行けば大変なことになったろうが、この時、ペナポリスのブラジル人郡長が13人の救出に奔走、サンパウロまで出て、軍部や州政府の執政官(任命制の首長)を動かし、釈放に成功した。
もう一度、憩の園聞き取り調査より。
▼女性Y 「それが、とても大切なことなのです。私は、あの当時はタピライという炭焼きを主にする日本人の集団地に居りました。そして大東亜戦争が始まったことを知らされた時に、領事館(総領事館、領事館)の人も大使館の人も皆、引き上げてしまった。移民じゃなく棄民になったといって皆、嘆きました。
どういう迫害が来るか……と日本人会で集って、色々な話合いをしました。その時に、これは、当時そこに居った日本人として忘れてはならないことなのですが、タピライのあったピエダーデ(タピライという地区があったピエダーデ郡の意味)の警察署長様が日本人を守ってくれたのです。お名前は忘れてしまって、どうしても思い出せませんが、その方が、不幸にして敵性国人になってしまった日本人…(略)…は勤勉で正直で、本当にブラジルのために働いた人たちですから、少しでも迫害する様な警察官が居たら、即座に辞めさせる、と発表されたんです。それでもう日本人は大切にされて、警察の下っ端の巡査なんかはビクビクしていました。
他所では随分迫害があったようですが、私たちタピライに居った日本人は、何の被害も受けることなく、自由に行動することができました。それで日本人会がお礼をしなければ、と。何かおあ 御上げしたい、と言ったんですが、絶対に受取らない。子供さんが亡くなられて、養子が一人、幼いのが居られて、それで日本人会で何か買ってあげた。日本品の何かを。そしたら、それは受け取られたということです」