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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第100回

ニッケイ新聞 2013年6月21日

 楽園からの手紙

 金子幸代は横浜市緑区十日市場の市営住宅を当て、母親の朴仁貞と二人暮らしをしていた。二DKの集合住宅だが、以前住んでいた恩田町の朝鮮人部落よりははるかに暮らしやすかった。父親と兄、姉らが共和国へ帰還していった後も、夜が明けると同時に、リヤカーを引く音や夫婦喧嘩の声が絶えない長屋で、中学を卒業するまで生活してきた。
 市営住宅に引っ越してからは、そうした喧騒に悩まされることはなかった。幸代と朴仁貞は生活保護に頼って生きてきたが、幸代は一日も早く生活保護を打ち切り、生活保護費を何に使ったかをこと細かにチェックする市職員の干渉から解放され、自立した生活を送りたいと思っていた。しかし、その生活保護が幸いして、低所得者のための市営住宅枠を獲得することができた。
 高校を卒業するまでは生活保護に頼るしかなかったが、卒業と同時に生活保護が打ち切られた。焼肉屋のアルバイトと朴仁貞の日雇い仕事で、生活はなんとか維持することができた。二人の生活がようやく人並みといえるほどになったのは、幸代が早稲田大学に進学してからのことだった。
 学費は大隈奨学金で全額無料になった。学生生活課からも優先的に家庭教師のアルバイトが斡旋された。それだけでは母子の生活は成り立たないので、幸代は家庭教師のかけもちを何人もしていた。教える要領さえつかめば、名門高校に生徒を合格させるのはそれほど大変なことではなかった。
 成績が良くなかった中学生が短期間で成績を上げ、進学校に入学できたという評判が広がり、家庭教師のアルバイトには事欠かなかった。家庭教師を引き受けるのは、自宅のある十日市場周辺の中学生を主に教えたが、大学の学生生活課から紹介される生徒は、都内に住んでいる生徒だった。家庭教師の仕事は日曜日以外すべて埋まり、大学の授業が終わると、すぐに生徒の家に向かう日々が続いた。幸代と朴仁貞の生活費は、家庭教師で得た収入でやりくりしていた。生活するだけで精いっぱいで余裕などなかった。
 特に勉強が好きというわけでもなかったが、早稲田大学第一文学部を首席で卒業し、修士課程に進んだ。帰化はしていたが、やはりその事実が就職に影響するという恐れは払拭できなかった。修士課程に進めば、さらに自由になる時間があり、二人の生活費は十分に稼ぐことができた。その上、幸代の評判を聞きつけた渋谷区代々木にある大手進学予備校が講師として採用してくれた。
 修士課程を終えると、幸代はそのまま博士課程へと進んだ。博士課程を修了した後は、幸代が師事した教授の口添えで、大学講師として東アジア史を教えるポストが用意されていた。
 その計画の見直しを迫られたのは一九七九年だった。それまでにも共和国に帰還した在日の悲惨な状況は噂として聞いていた。
〈石鹸、古着、カミソリ、時計、ネッカチーフ、薬品、現金を送ってほしい〉
 こうした手紙が日本に残った家族に送られてきていると囁かれていた。断片的にだが、幸代の耳にも当然それは入ってきた。
 どこで聞いてきたのか、朴仁貞までもが「共和国には着る物さえないらしい」と言って心配していた。しかし、実際に共和国に帰還した家族から手紙が届いたと、それを見せてくれた知人はいなかった。総連はそうした情報を民団が流している反共和国宣伝だと一笑に伏していた。
 共和国との往来はそれまでは金日成、金正日父子の誕生日、九月九日の建国記念日、十月十日党創建記念日に、忠誠を示すとために総連幹部が高価な土産を持って訪問する程度だった。ところが一九七九年から短期祖国訪問を突然認めるようになったのだ。
 消息がわからなくなっていた帰還者の安否を気遣う家族が一時訪問で北朝鮮に入国できるようになった。
 それまでは噂の域を出なかったが、次第に帰還した家族の実情が残留家族にもはっきりとわかるようになってきた。


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