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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(30)

ニッケイ新聞 2013年6月25日

「 七月二十日 昨日は東條内閣総辞職の報あり。…(略)…さて、これは時節柄、どうしたことか、と一寸不安になった」
「七月二十八日 その後、ドイツの形勢は面白くない。…(略)…戦線では後退に次ぐ後退」
「十二月十八日 日本のラジオだけで、他の事には絶対耳を覆っているものが大多数」

 利敵産業襲撃

 戦時中、不幸中の幸いだったのは、邦人の主産業であった農業が好況であったことである。生産物、特に輸出用のそれの市況が良かった。戦争による特需のおかげであった。まゆ 繭やはっか 薄荷などは、最高時には10倍近くまで値上がりし、生産者は大儲けした。
 ところが、ここで、不気味な事件が頻発する。その繭(まゆ) やはっか 薄荷を生産する農家が、夜間、何者かに襲われ、養蚕小屋が焼討ちされたり、畑の薄荷が引き抜かれたり薄荷の加工(蒸留)装置が破壊されたりしたのである。1943年からである。
 繭や薄荷は利敵産業である、という噂が、まことしやかに伝わっており、これが襲撃の理由になっていた。利敵とは、日本の敵である米国を利する、という意味である。
 何故、利敵産業なのか?
 繭は絹糸となり絹布に織られ、薄荷とともに米国に輸出される。絹布はパラシュートになり、薄荷は爆薬の原料やエンジンの冷却剤として使用される──というのである。
 この二つは、戦前、日本が主たる生産国であり、その多くは米国に輸出されていた。その輸出が開戦で止まったため、ブラジル産への需要が高まったのである。
 しかし、実際は、パラシュートは当時ナイロン製に変わっていた。
 薄荷は精製されてハッカ脳とハッカ油に分離され、ハッカ脳は薬品や香料の、ハッカ油は清涼飲料剤や歯磨き、チューインガム、菓子などの生産剤に使用されていた。が、爆薬生産の原料やエンジンの冷却剤にされたという様な話は聞いたことはなく、専門家も「可能性は少ない」という。
 この繭・薄荷利敵産業論は、戦時下、情報遮断の中で発生した流言蜚語と見做すべきであろう。
 また、この襲撃は、興道社という秘密結社がやったという見方が生まれ、長く通説となってきた。が、筆者の調べでは、違う。
 興道社は1944年2月、日本陸軍の退役軍人たちが設立した。大佐脇山甚作、中佐吉川順治、大尉山内清雄、軍曹渡真利成一らである。利敵産業の防止運動を目的としていた。代表者には吉川がなった。脇山は国交断絶後、オールデン・ポリチカに拘引・留置されたことがあったため、用心して辞退した。
 日本軍が苦しい戦いを続けているとき、邦人農家が利敵産業に従事するのは、自粛すべきである、と興道社は提唱した。そこで、襲撃も興道社の結社員、あるいは彼らの扇動を受けた者がやった……ということになり、通説となった。が、これには裏づけがない。
 筆者は2004年、興道社に居って職員をしていた佐藤正信(86歳)がパラナ州ローランジャに健在だったので、訪問、面談、話を聞いたが、同氏は明確に、この通説を否定した。「自分たちがやったのは、利敵産業は止めようという説得であり、襲撃や扇動ではない」と。ただ、繭や薄荷は、当時ブラジル政府が増産を奨励していた産業であり、興道社の運動はサボタージュに当り、違法行為であったため、秘密結社にしたという。
 さらに筆者は、同年「自分が焼討ちをやった」という人にも会うことができた。その話では、やったのは1942、3年頃であり、興道社は未だ設立されていない。当人も、全く自発的意思でやったことであり、興道社の名前は聞いたこともなかったという。(つづく)