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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第103回

ニッケイ新聞 2013年6月26日

 短期訪問団の日程には沙里院も含まれ、沙里院旅館で昼食を摂る。それが共和国で暮らす帰国者にも伝わり、短期訪問団が沙里院を訪れる日には、沙里院旅館の前に帰還家族が集まってくるようになったらしい。
「白さんがバスから下りると、やせ細った男が近づいてきて、恩田町の白さんですかって聞いてきたんだって。あまりにもみすぼらしい格好をしているし、昔の面影はまったくないほどの変わりようで、白さんには最初は誰だかわからなかったらしいよ。相手が名乗ったので金寿吉とわかったようだ。旅館に入れるのは訪問団だけで、知り合いでも入ることができずに、亭主と会えたのはバスを下りる時と乗る時だけの数分だけで、バスに乗り込む時に三万円を渡したそうだよ。その時に小声で容福は強制収容所で死んだと教えてくれたそうだ。私たちに一度共和国に来るように伝えてくれと伝言を頼まれたと言っていたよ」
 その話を聞き、幸代も言い知れぬ不安を覚えた。共和国に帰国した在日が地上の楽園どころか貧しい生活を強いられ、温かく迎えてくれるはずの同胞から差別されているという。その現実を一言でも批判しようものなら強制収容所に送られ、過酷な労働を強いられるという噂も聞いていた。
 北朝鮮で医師として活躍することを夢見て帰国した容福だが、いったいその後、何が起きたのだろうか。白と直接に会って話を聞かなければと思った。
 幸代自身、すぐにでも北朝鮮を訪れたいと思ったが、しかし、日本に帰化していたし、たとえ入国が可能であったとしても大学や予備校講師の仕事を休むわけにはいかなかった。
「白さんに会えるように段取りして。それと帰国するのにいくらかかるのか、手続き方法を総連から聞いてきて」
 幸代は投げつけるように母親に向かって言った。朴仁貞も娘に伝えるべきことを伝えたと思ったのか、幸代の仕事の妨げになると思ったのか、部屋から出ていった。

 それから一週間も経たない日曜日の夕方だった。幸代は母親と一緒に白徳根が経営する焼肉店を訪ねた。横浜マリンタワー近くにある店で、白は二人に食事を進めてくれたが、食事をしながらできるような話ではなかった。丁重に断ると、白もそれを察したのか店の奥の事務室に二人を導いた。
 窓はなく壁に換気扇が取り付けられ、机が一つ置かれ、そこには伝票が山のように積まれていた。その前にソファが、書類が山積みになったセンターテーブルを挟んで向き合うように置かれていた。
 白は腹部のせり出した体を窮屈そうにしながらソファに深々と腰を下ろした。従業員がすぐにコーヒーを運んできて、テーブルの隅に置いた。
「父に温かいお心遣いをしていただいたそうで、心から感謝しています」
 幸代は礼を述べた。
「いや、そんなことはいいんだ。私も金寿吉さんには世話になっているし、医師の勉強をしていた容福にも診察してもらったこともある」
 東大医学部で国家試験を受けるだけになっていた容福のところに、貧しくて医師の診察を受けられない在日が健康の相談によくやってきた。
「医師の資格はまだないので診察はできない」と断っている容福の姿を幸代自身何度も見ていた。一世の多くは家族を養うために過酷な条件の下で働き、ほとんどの者がなんらかの病気を抱えていた。重篤な患者には、すぐに病院で診察を受けるように指示し、あとは薬を飲んで治せるような病気には薬局で買う薬名を告げていた。
「それよりもこれだけは約束してほしい。今日、聞いた話は私からだと誰にも告げないでほしい」
 恰幅のいい白徳根が身を乗り出し、幸代から視線を外さずに言った。
「知っての通り、私の長男、二男は共和国に帰っているんだ。家族を危険にさらすわけにはいかない」
 白徳根の真意が幸代には理解できなかった。家族と再会を果たしたというのに怯えを顔に滲ませた。(つづく)


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