ニッケイ新聞 2013年6月27日
青柳郁太郎が米国留学していた1890年前後、枢密顧問官だった榎本武揚により「植民意見書」が山縣内閣に出された。
1890(明治23)年8月6日付けの読売新聞に掲載されたその意見書には「今もし真の有志者奮起して、我が善良なる農民数万人に新利源を海外に得せしめば、忽(たちま)ち相率いて彼岸に至り以(も)って遂に新日本を天の一方に創立する機あるべし。是決して夢想にあらざるなり」(『ドキュメント 榎本武揚』東京農大出版会、73頁)とある。日清から日露戦争に至る時代には、このような気運が満ち満ちていた。
1891年、外務大臣になった榎本は省内に移民課を創設した。形としてはここから「移住政策」が始まるといえなくもないが、実際のところ、榎本はわざわざ外務大臣を辞職して植民協会を作り、日本人初の植民団「榎本植民団」35人を1897(明治30)年にメキシコのチァパス州へ、なぜか民間として送り出した。
若き日の榎本が果たし得なかった「蝦夷共和国」の夢が〃新日本〃として、北海道よりもさらに東方の〃天の一方〃に込められていたのかもしれない。でも、植民団はすぐ崩壊してしまった。
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一方、青柳は1893年3月18日に米国郵船でサンフランシスコを出て単身で5カ月間、南米ペルーを視察し、その結果を前述の本に地理、歴史、鉱業、貿易、植民の順に紹介している。
「植民」項では《此時に當て本邦若(も)し出稼を兼たる永住的移民法を設け以って事に従はし、獨り邦内有余の貧困者を将来多望の新大陸に移し、比較的に大資本を要せずして大和民族勢力の区域を広むるを得るのみならず、宛も秘魯の希望に応ずる限り、彼の国有力者の談論及其の殖民史によつて判断するに、秘魯は事情の許す限り移住民に対し譲与と保護に吝ならざるべし〜》(73〜74頁)と移住先としての有望性を熱く説いた。
青柳の本の影響もあるだろう——南米初の日本移民受け入れ国はペルーとなった。青柳著作の5年後、1899(明治32)年4月に移民会社・森岡商会は790人をベルーに運んだ。これが第1回ペルー移民で、南米最古の集団移民だ。笠戸丸の9年前だ。
しかし言葉の不自由、生活習慣の違い、劣悪な労働環境により、入植数カ月にして4割が脱耕するという悲惨な事態に陥った。中でもカサ・ブランカ耕地ではマラリアやチフスなどが蔓延し、226人が配耕され、到着すぐの5、6月だけで40人もの死者が出て、7月の時点で労働できるものはわずか30人という有様だったという。
第1回ペルー移民が悲惨な状態に陥っているとの報に接した外務省は、在メキシコ公使館の野田良治書記生を赴かせて調査に当たらせた。のちに駐ブラジル代理大使も務め、当地の移民への世話をし、帰国後も南米関係の書籍や辞書を出版したあの野田だ。
その結果、野田は「全員帰国」という結論を出したが、帰国させる手段はなかった。野田が農場主に待遇改善の要求を続けるうちに、事態は次第に改善の方向に向かい、移民事業はほそぼそと続いて1923年までに1万7764人が入植した。しかし、この一件で青柳が有望と見たペルー移住はつまずいた。
神戸大学附属図書館サイトによれば『東京時事新報』の1912(明治45)年5月24日付けに「南米に大植民地」との見出しの記事がでた。
いわく《山口正一郎、青柳郁太郎の諸氏は夙に我国人口の過剰なるに察し、如何にかして恰好なる植民地を発見してここに民族発展の大基礎を建設すると同時に、商工業拡張に対する確実なる販路を獲得せんと欲し、先ずフィリッピン群島中のパタン島に着目して明治三十五(1902)年福岡県の工夫四五十名を同島炭坑会社に送りたるも土地狭隘にして希望を果す可くもあらざる〜》とある。つまり、ペルーの次はフィリピンに目を向けた訳だ。(つづき、深沢正雪記者)
写真=榎本武揚(『榎本武揚と横井時敬 東京農大の二人の学祖』より、東京農大出版、2008年)