「 44年、出征が決まった。日本に行かされるのではないか、とビクビクしていた。が、送られた先はイタリアだった」
「何度も戦闘を経験した。何回か覚えていない」
「雪の中で戦ったことがある。ドイツ兵が白装束でやって来た。だから、よく見えない。が、人の気配を感じた。誰か!と三度叫んで返事がないので撃った。その弾がドイツ兵の背中に当っていた。死んでいた」
「敵が機関銃を撃った。地面に寝る(伏す)と直ぐ上を弾が……」
「敵の撃った弾が、自分の兜に当ったことがある。が、怪我はしなかった」
「ドイツが負けたので、日本も危ないと思っていた」
「現在、国籍はブラジルだが、気持ちは日本人だ」
この人は後遺症で苦しんだ割には、児玉さんと同様、話の内容に怨念や湿気がなかった。
怨念や湿気は、前記の馬場の著書に出てくる。 日本ではブラジル国籍を持つ者に対する警察や憲兵の警戒、白眼視があったとか、日本政府が戦後1951(昭26)年、すべての二重国籍者に、日本国籍からの離脱を勧告したとか……の話である。
出征したわけではないが、既述の東京ラジオのアナウンサーとして日本の戦争遂行に協力した平田進が、戦後「ボクたちには、祖国が一つもないね」と言ったという話も出てくる。
馬場は、さらに「イタリー戦線で、ブラジルのために死線を越えて戦った日系兵士が、闘いすんで帰ってみれば、留守中の家族が敵性国人として不当な扱いを受け、中には投獄されるという悲劇まで起きていた」という話も記している。(投獄は、正確には拘留の意)
半 田日誌にも、次の様な話が出てくる。(1942年1月11日)
戦時中、あるブラジル生まれの若者が「私は、これまで、自分はブラジル人であると主張してきたが、ブラジル人の方が、私を日本人としか見ない。『私はブラジル人だ』と主張すると、向こうは『自分の顔を見ろ』と答える」と悔しがっていた──。
この若者は、後に、念願かないイタリア戦線に出征している。
しかし、こういう怨念や湿気は、すべての若者に共通していたとは考えにくい。
この種の心情は、当時のインテリ層の一部のものであった。が、インテリそのもの 数が未だ極めて少なかった。従って、かれら僅かの事例を通して、当時の若者の心情を把握しようとすると、全体を見誤ることになる。
日本で、ブラジルで、戦場に向かった若者の胸中は、一人一人違っていた、と見るべきであろう。
終戦
1945年、半田日誌。
「二月十日 午前中、買い物のためシダーデ(市街地) へ出て新聞を買ったらドイツ国内で人民が一キ(一揆)を起こしているなどの報があった。どうも面白くない。それから近く開かれるメキシコ会議では、全南米が一斉に枢軸国家に対して宣戦する決議をするだろう、などと書いている。胸くその悪いほどアメリカが憎悪される。やるならやってみろ、我々はキモに命じる。永久の敵としてやると思った。アメリカ資本主義を倒さない間は、彼らのウヌボレを滅することはできない」
「三月二十七日 (米軍が)沖縄にやってきたらしい…(略)…早く華々しい逆襲がみたいものである」
「四月二日 今日の新聞の報道によると、沖縄本島が中断されたとある…(略)…敵の進撃は、ますます猛烈になって行く…(略)…我々は七度この世に生まれてきても、
米英撃滅の理想は捨てないと思うが、また、それだけ、この度の戦争は楽観できない。
ただ興廃の秋に当って必ず一大勝利を齎すに違いないと、我々は忠勇なる日本軍人、否、全日本人を信ずるだけである」
「四月三日 …(略)…野村さんに会へたのは意外中の意外。丸十ケ月の牢獄生活から出てきたんだ。なんといっても娑婆は有難いと言っていた。最初九十日の独房生活の苦難は、想像を絶するものだったらしい。神経質の人なら発狂しかねないとも言っていた」