ニッケイ新聞 2013年6月29日
「 四月六日 モスコー五日電で日ソ中立条約は継続されざることが…(略)…。日本では小磯内閣が辞職して鈴木カン太郎大将が…(略)…チト面白くない成り行きだ。…(略)…まだまだ無敵艦隊も健在である筈だ」(無敵艦隊は、とっくの昔に無くなっていた)
「四月二十二日 鈴木内閣を和平内閣と見る日本人インテリが増えた」
「五月七日 山本さん(宅)でドイツ降伏の…(略)…。汽笛、鐘、サイレン等、一斉に鳴り響いた…(略)…シダーデは物凄い騒ぎらしい…(略)…ドイツ人は、どんな気持ちだろう。電車の中では顔を見るのも気の毒である。…(略)…(隣りの)ドイツ人宅は今日は訪問客が絶えてない…(略)…夜半まで花火の音が絶えなかった」
「五月九日 明けてもくれても我々にあるものは、今後の世界の動き、日本の将来である。日に二、三部の新聞を買ってみる。新聞代が嵩む」
「五月十三日 日本の勝利を信じないわけではない…(略)…だが、これだけはハッキリ言える。米英撃滅はすべて過去の夢である。…(略)…焦土作戦などは絶対にいけない」
「五月二十七日 フェイラ(露天市) から帰ってきた妻が新聞を買ってきたので見たら、また東京の爆撃だ。…(略)…東京は殆ど灰燼に帰したらしい」
「六月六日 ブラジルが日本へ宣戦した」
「六月十日 フォーリャ・ダ・マニャン(新聞)に鈴木首相の声明が出ていた。日本は無条件降伏を避けるため、最後まで戦う決心らしい。悲愴な決意だ。まだまだ物凄い戦争がある。(同紙は)日本の精神科学は、列強中、一番遅れているからアメリカの新鋭兵器の前には、ひとたまりもないだろう、と論じている。…(略)…ブラジル人から言われると、片腹痛いが、我々には一寸こたえる。…(略)…命を投げ出しうる精神力が、いかに偉大な文化であるかを知ることが出来ないのである。死を恐れぬ精神、死より強い愛、個人の上にある祖国」
「六月二十一日 沖縄本島を米軍完全占領と発表」
「六月二十六日 私は、まだ日本が絶体絶命だとは思わない。これから、どんな戦略に出るかは未知のものであるし…(略)…最後の段階で相当敵に打撃を与えるであろう」
「七月二十七日 今朝の新聞は一斉にチャーチル、ツルーマン及び蒋介石が日本政府に無条件降伏を通告したことが出ていた。…(略)…夕刊は、簡単に日本政府、無条件降伏不承知と出した。まだまだ慌てる必要はないもよう」
「八月六日 (夕刊が原爆投下を報道)憎米感が募ってくる。いかなる手段でか米国を倒してやりたい」
「八月九日 ロシアが日本へ宣戦した」
「八月十日 午前十時頃、ラジオは、日本はポツダムよりの提出条件を承知せり、と報道した…(略)…夕刊は、日本降伏と報じた。私の気持ちは昨日より平静である」
「八月十一日 今日の新聞も降伏問題が最大のトピック…(略)…コンセレェイロ(道路名)の床屋へ行ったら、日本人は相変わらず元気なモノ。今朝のラジオはどうでした。
原子爆弾とやらはインチキらしい。…(略)…満州の方も大軍がきているんではないらしい…(略)…一般在留民が祖国を信じている態度は実に美しい…(略)…終日、日本のことを考えた。他のことなど頭に入らない。今こそ冷静に冷静に」
「八月十二日 …(略)…大勢は決したものとして……」
「八月十三日 きくところによると、日本降伏の報に悲憤の涙をわかした人もあるらしい。自殺未遂の新聞記事もあった。でも大多数の日本人は、まだ頑として日本の勝利を信じている」
肝心の終戦の日は、半田は風邪で高熱に襲われ寝ており、日誌には何の記述もない。
それはともかく、この日誌にもある様に、ポルトガル語を理解し、開戦以来、ポ語新聞を熟読し続けていた半田ですら、終戦の直前までは日本が巻き返すものと思い続け ていた。ましてポ語を理解せず、ポ語新聞を読んでいなかった大多数の邦人は──すでに日本のポツダム宣言受諾報が流れていた終戦寸前になっても──祖国の勝利を信じていた。
日本型ナショナリズムの中で育ち、その熱風を受けていた人たちとしては、自然のことであったろう。(つづく)