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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第109回

ニッケイ新聞 2013年7月4日

 テーブルの上を片付けていた叫子が、その手を止めていった。
「パウロ、字は書けるの?」
 突然の質問にパウロは顔を上げて、叫子の顔をまじまじと見つめた。
「中学は卒業したの?」
 叫子は見習い整備士の採用資格が中学卒業だということを知らないから、悪びれることなく単刀直入に聞いた。
 パウロは予期していなかった叫子からの矢継ぎ早の質問に、どう返答していいのか困惑した表情を浮かべた。砂糖なしのエスプレッソコーヒーをマグカップ一杯一気に飲み込んだような顔をした。
「卒業していないのなら、一日も早く卒業しなさいよ」
 叫子はこう言って皿をキッチンに運んでいった。
「卒業していないのか」確かめるように小宮が聞いた。
「シェッフェ、俺はクビにされるのか」
 パウロはやはり中学を卒業していないようだ。
「ホンダのディーラーが中学卒業資格の者だけを採用しているのは知っているだろう」
 小宮の言葉にパウロは気の毒になるほどしょげ返った。
 いつのまにかキッチンから戻っていた叫子がテーブルの椅子に座りながら言った。
「卒業していないのなら、夜、中学に通って一日も早く卒業してしまえばいいのよ」
 そんなに簡単に卒業できないから、資格を偽って就職したはずなのに、叫子にかかると小さな水たまりを飛び越えるくらいのことのように思えてしまう。
「仕事が終わったらすぐ夜学に行きなさいよ」
 叫子が追い打ちをかけるように言った。
「でも……」
 パウロが口ごもった。
 パウロは会社まで二時間近くバスに揺られて出勤している。二十四時間バスはサンパウロ市内を運行しているが、夜間中学で授業を受け、それから帰宅すれば家に着くのは午前一時か二時だ。数時間寝ただけでまた出社しなければならない。いくら若くてもそんな生活に耐えられるはずがない。
「パウロの家族は何人いるの?」叫子が聞いた。
「七人、でも父親はいないんだ」
「パウロの他に働いている兄弟はいるの」
「兄、姉、俺の三人」
 三人の給料を合わせても七人が生活していくだけで、余裕などないだろう。
「パウロ、正直に言ってね」叫子が言った。「学校には何年生まで通ったの?」
「小学校は卒業したけど、中学には一日も通っていない」
 こう答えて、パウロはすがるような目で小宮を見つめた。解雇されるのを恐れているのだろう。
 採用の条件は中学卒で、事実がわかれば解雇されてしまう可能性があることを、小宮は日本語で叫子に説明した。パウロはますます不安なのか、頭を抱えて黙り込んでしまった。
「近くのペンソンに入って夜間中学に通うのも大変というわけね」
 叫子はすぐに事態を理解した。
「私からの提案、あなたの考えを聞かせて」叫子は日本語で言った。
 住んでいるアパートは二人には広すぎるくらいのスペースがある。玄関のドアは二つ並んでいるが、一つはクワルト・デ・エンプレガーダ(女中部屋)で、そこは倉庫として使っていた。その部屋にはシャワーもトイレを備え付けられ、お手伝いさんが住み込みで働けるようになっている。
「パウロにあの部屋を貸してあげれば夜間中学に通えるでしょ。食事だって、二人分も三人分も作るのは同じことよ。それなら給料を家族に渡せるし、週末は自分の家で過ごせばいい。どうかしら」
 小宮に異存はなかった。叫子と出会えたのも、もとはと言えばパウロの冗談から始まったのだ。
「君さえいいのなら、僕は大賛成さ」
 パウロはクビになると思っているのか、相変わらず下を向いたままだ。(つづく)


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