ニッケイ新聞 2013年7月6日
初代弁理公使の珍田捨巳が赴任して日本公使館がペトロポリスに設置されたのは1897(明治30)年8月23日。公使は通常外交中心だが、彼の場合は初代総領事も兼ねていた。
もしやと思い「土佐丸事件」を振り返ると、まさにその年の8月15日が出航予定だった。おそらく移民受け入れのための総領事だった。ところが突然の中止…。「何のために赴任したのか?」との忸怩たる思いで残りの任期を駐在したのではないか。その悪印象を引き継いだであろう第2代弁理公使の大越成徳(おおごしなりのり)も、日本移民導入に反対の報告書を上げていた。
ところが杉村濬弁理公使で一変する。二等書記官に戻っていた堀口九萬一が指南役となって準備をし、「杉村公使」の名前で報告書を出した可能性があるのではないか。
ブラジルを移民有望の地と推薦する杉村報告書が6月に刊行されたすぐ後、堀口は1905(明治38)年8月、日露戦争の戦勝にわく日本に帰朝を命ぜられた。杉浦報告によってブラジル移民熱が始まっていた日本では、あちこちから引っ張られてブラジル事情を講演し、日伯貿易を大いに推奨した。当地のことをよく知っていたのは、着任したての杉村ではなく、間違いなく堀口だった。
渋沢栄一が主催して東京商業会議所で堀口の講演を聞いた藤崎三郎助は決意を固め、藤崎商会のブラジル出店を決め、翌明治39年に早々と実行した。《藤崎三郎助は、第一回移民の入植に先立つこと二年、明治三十九年に、サンパウロに藤崎商会を創設し、日本移民の足がかりを作ったことと、日本商品の販路拡張につとめたことで、つまり日伯貿易の先駆者として著名である》(『物故者列伝』12頁)
水野龍も杉村報告を読んで、1905年12月には早々とブラジルへ向かった。この日露戦争からの流れの中で、堀口九萬一の隠れた貢献がブラジル移民開始に深く関係していたようだ。
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実はこの渋沢栄一は、一連の植民事業の原型のようなものを既に桂首相に提案していた人物だ。
青柳名で桂首相に意見書が出される5年前、1903年時点で桂首相宛に移民に関する意見書を上げている。東京シンジケート以前から植民事業のアイデアをねっていた。むしろこの時点で、ある程度のレールを敷いたと言ってもいいような内容と思われる。
『事業家とブラジル移住』(渋沢栄一記念財団研究部、不二出版、12年、以下『事業家』)によれば、渋沢は日露戦争前の1903年の時点で、東京商業会議所の会頭として「移民保護に関する義に付建議」という意見書を桂内閣に出した。《日清戦争後の日本経済が当面する課題の解決を図ろうとしたもの》(56頁)で、《建議の内容は、当時の実業家が共有していた海外移民に対する認識であったといえよう》(57頁)とある。
建議の要点は次の3点だ。《海外移民の発展を妨げている要因として、(1)移民政策の未確立、(2)詳細な移民地調査の欠如、(3)有力な移民会社の欠如の三点を挙げ、これらの諸要因を取り除けば、移民に「規律」と「実力」を付与させるばかりでなく、ひいては日本経済の発展や貿易の拡大にも寄与するであろう》(57頁)と指摘する。
もちろん1903年時点ではまだ杉村報告は出ていない。でも、それ以前に本格的な移民政策に必要な課題が列挙され、(2)は「東京シンジケート」の創立と青柳ブラジル派遣、(3)は後に実現する「伯剌西爾拓殖会社」創立という方向性を見事に示している。
おそらく、1908年に青柳郁太郎名で桂首相に提出された「海外植民政策に関する意見書」には、渋沢の考え方も少なからず影響を与えていたのではないか。(つづく、深沢正雪記者)