ニッケイ新聞 2013年7月6日
戦勝派史観は、さらに次の様に言う。
「襲撃事件は、実行者たちの独自の行動であり、臣道連盟が組織的・計画的に行ったものではない。しかるに、ハイセン(敗戦派)の密告によって、警察は『秘密結社・テロ組織の臣道連盟の犯行である』と思い込み、大量の人間を検挙した。主だった連盟員を根こそぎ拘引・留置しただけでなく、連盟以外の戦勝派まで、そうした。
ハイセンが、その人選に協力した。警察は留置した者を辱め、虐待し、拷問にかけた。天皇陛下の御真影を土足で踏ませた。ために被留置者は堪え難い精神的・肉体的苦痛を味わった。拷問が原因で死んだり、後遺症で苦しんだりした者も多数いる。しかるに、その被留置者の殆どが冤罪であった。
警察は、ポルトガル語の新聞にも、臣道連盟はテロ組織である、と発表した。ためにポ語新聞は、どれも、臣連は人殺し団体だ、テロ団体と毒づいた。読者もそう思い込み、以後、連盟員やその家族は、長年に渡って汚名を背負い続けた。
警察もハイセンも、その責任をとっていない」
以上の如くで、認識派史観と戦勝派史観は、大きく違っている。
以下、筆者が中立的観点から、全体的な流れを追いつつ、可能な範囲内で、洗い直した部分を整理して記す。
洗い直し
終戦時、日本の降伏は
ポ語の新聞やラジオ、そして日本からの東京ラジオで報ぜられた。それを読み聴いた人によって、邦人社会でもパッと広まった。
そのニュースに接した瞬間、頭の中の機能が止まってしまった人、全身の血が凍りつき失神状態になった人、目が眩み立っていられず、座っても駄目で、横になった人……ともかく誰もが大変なショックを受けた。
そういう中で、一部の人は降伏報を受け入れたが、大部分は、そんなことは絶対ありえないと、言葉で、表情で、身振りで、反撥していた。
それだけだったら、やがて、その「大部分」も、降伏報を受け入れたであろう。ところが、先に触れた様に、ここで「日本は勝った!」というニュースが流れたのである。
その頃、邦人は殆どが、サンパウロ州とその周辺に住んでいたが、かなり広範囲に、この戦勝ニュースは流れた。早いところは、その日か翌日、遅くとも数日で──。
皆、これに救われた。ホッとした。それを信じたのである。信じたのは、当時の人々からすれば「勝って当たり前」だったからである。東京ラジオも、直前まで、大本営の「敵を本土に引き付けて殲滅する」という作戦を報じていた。日露戦争での日本海海戦の前例もあった。
正体不明のラジオ放送
では、その戦勝ニュースは、何処から発し、どうして、そんなに早く伝わったのか?
実は、奇妙なことだが、邦人社会には(東京ラジオ以外に)日本語のラジオ放送が流れており「戦勝」を報道していたのである。ラジオだから広く早く伝わる。それを聴いた人が、会う人会う人に伝え、それがまた同様に……という具合に、戦勝ニュースが短期間に広範囲に伝わったのである。
筆者は、このラジオ放送の話を、かなり昔、誰かから耳にしていたが、2001年、もう一度、詳しく聞いた。終戦時、パウリスタ延長線のキンターナに住んで居た押岩嵩雄(おしいわ・たかお)という知人からである。その時点では、押岩はサンパウロ市内に住んでおり、91歳であった。
押岩の話によれば、ラジオ放送は終戦の二、三年前から流れ始め、日本軍の無敵ぶりを景気よく放送、戦後も、しばらく、それを続けていた。
アナウンサーはプロフェショナルな口調であった。普通の受信機で聴けたが、発信地はシンガポールとかボルネオ…とか外国の地名を言っていた。
実際、そんな遠隔地から送波していたら、短波受信機でなければ聴けない。が、田舎では、そんなことは知らない者が多かった。何しろ、一つの植民地にラジオは一つか二つ…という時代だった。(つづく)