ニッケイ新聞 2013年7月9日
普通の受信機で聴けたということは、発信地が国内、多分サンパウロ州内であったのであろう。送波者は日本人であった筈である。
ここで、ラジオ放送など出来る技術の持ち主が、邦人の中に居たのか……という疑問は当然湧く。が、実はサンパウロ市では、戦前から、民間のラジオ放送局は、日本人向けの番組を制作・放送していた。それには日本人が参加していた。日本人グループが自分達で番組を制作、局から時間を買って放送したことすらあった。
当時は、すでにラジオ放送くらいできる人間がいたのである。もっとも、それは多少の経験と簡単な装置さえあれば、難しいモノではない。
ちなみに、それから数年後の1950年代初め、日本語の番組がサンパウロ市内には5つ、ローカル局は11あった。放送局から、数十分単位の時間を買い取っての放送であった。
知らぬ人には信じがたい話だろうが、この数は、その後も激増して行き、放送局まで持つようになった。(1964年革命の後、外国語番組は禁止された)
終戦前後、日本語放送があったとしても、おかしくはなかったのである。無論、この場合は、監督官庁の許可を受けず、極秘に送波したのであるが……。
サンパウロの文協の移民史料館に、一冊の手記が保管されている。表紙には、
「ラジオ・ニュース控え ノロエステ線グアララペス駅コルゴ・ナッセンテ植民地 高山光次」とある。
中には、戦時中の東京ラジオの戦況ニュースが、克明に記されている。ところが、末尾の方に全く別の戦況ニュースが出てくる。
「八月十八日、マリリア市受信ニュース
一、米艦隊第一、第二、第三 千弐百隻太平洋ニ於イテ全滅セリ、八百隻撃沈、三百隻、白旗を挙ゲテ横浜ニ入港セリ
二、我帝国ハ四十二ヶ国ニ無条件降伏ヲ勧告セリ
三、英国ハ既ニ降伏セリ、米国ハ銀行取付ケニ対スル準備の為十八日午前三時三十分日本ニ向ケテ無条件降伏ス」
……などという文字が延々と続く。
それ以上のことは、判らないが、八月十八日現在、戦勝ニュースがラジオを通じて流れていたことを裏付ける資料である。
この日本語のラジオ放送を、誰が何処で何の目的で、流していたかは、今日に至るも不明である。
放送は、やがて終わった。が、放送中から、その内容を謄写版刷りにしたビラが配布された。そのビラは放送終了後も続いた。ポ語の新聞や雑誌に出る日本の敗戦に関する記事や写真を、巧妙に戦勝報に改竄して使用していた。
8月15日までは=百㌫勝ち組だった!
筆者は2009年の暮れ、知人の紹介で、終戦後7年間は戦勝派で、その後、認識派に転じたという人に会った。サント・アンドレー市に住む池田収一という老人である。87歳ということであったが、10歳以上若く見える、品よく意思の強そうな紳士であった。
池田は、終戦後「日本は勝った」と信じていた。信じたまま1952年、日本へ向かった。その船には、やはり戦勝派の日本人が5、6家族、乗っていた。
祖国で池田は、アメリカ兵の腕にブラさがって歩く日本女性を見て、ドブに突っ込まれたような気がした。敗戦を悟った。2年ほどしてブラジルに戻り、今度は認識派として戦勝派と論争した。その後、地元の文協
の会長を務めた。
筆者は、この人に取材中、何気なく既述の「邦人の8、9割が勝ちを信じていた。10割近くがそうだった時期もあった」という説を話題にし、それに対する疑問を口にした。多過ぎる気がしたのだ。が、この老紳士、パッと口を開くや、切って捨てる様に、こう言った。
「8月15日までは100㌫、勝ち組だったンだ!」
筆者はハッとした。(つづく)