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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(42)

ニッケイ新聞 2013年7月12日

 本稿の初めの方で詳しく記した様に、邦人の殆どは、明治以来の日本型ナショナリズムに基づく国民教育、社会教育を受けて成長した人々であった。ブラジルに渡ってからは、日本から吹き込むナショナリズムの熱風を浴びた。
 戦時中は、迫害の中、祖国の勝利の日を待ち続けていた。天皇への尊崇や国家に対する信念は、待ち続けるための心の支えであり、誇りであった。
 だから、終戦直後、敗戦報と戦勝報が流れた時、後者を選んだのは、8月15日まで抱き続けていた素朴なナショナリズムを、翌日以降も抱き続けていただけのことであった。難しくアレコレ考えて、そうしたのではなかった。
 ただし、ナショナリズムという単語は、筆者が便宜上、使用しているだけで、彼らが、そういう言葉を使用していたわけではない。彼らの言葉で表現すれば、天子様を崇め、御国を信じる心であろうか……。

 それと、もっと簡単なことだが、人というものは、長いこと信じてきたことを突如、覆されても、頭がついて行かないものである。
 卑近な例として1993年、日系社会の城であったコチア産業組合の瓦解が、突如表面化する直前、筆者はごく少数の知人に、瓦解の危惧を洩らしたことがある。しかし誰も耳を傾けなかった。コチアは絶対的な存在であり、瓦解などということは、彼らのコチア観の中ではあり得なかったのである。
 筆者にしても、瓦解の兆候をかなり早く知ったために、危惧できたのであり、それも、その兆候を半年、一年と追跡した結果、そうなったのである。当初は消息通の知人が「コチアは潰れるのではあるまいか……」などと口にしても、頭がついて行かなかったものだ。
 瓦解が表面化した後でも、地域によっては、半年経っても一年経っても、半信半疑の組合員がいたものである。筆者は、そんな所を訪れたことがある。その折、彼らがこちらを見る目に驚いた。「コチアは、潰れてなんかいないンだろう?」と、同意を求めていたのである。

 終戦当時、すぐ敗戦を認識できた人は、恵まれた人々であった。
 例えば、日本で高等教育を受け、ポルトガル語もある程度判り、自分の頭で世界情勢の動きを掴むことができた一部の一世がそうである。あるいは直感でそれが出来た俊敏な才の持ち主である。
 また、少年期から都会に出て、ポ語の世界で、ある程度の教育を受けた人である。しかし、そういう人は、わずかであった。前出の半田知雄は、その一人であった。
 半田は、情報量が豊富なサンパウロ市内に住んで、ポ語の美術学校を出ていた。だから、ミッドウエイ海戦以降、時々、微かではあるが、戦況の進行具合に不審を抱き、それを日誌に記すようになっている。それが積み重なって、日本の降伏が報じられた時、人より早く受け入れることができたのである。
 もし彼が、サンパウロに出る機会に恵まれず、田舎に居ったなら、何年かは戦勝派のままでいたろう。

 帰国願望

 戦勝報を信じたのは、帰国願望も強く影響していた。
 元々、日本移民は、移民ではなく出稼ぎのつもりで来ていた。彼らの目的は錦衣帰郷であった。「一万円貯めて、日本へ帰る」というのが、共通した目標であった。
 その帰国願望が1934年の排日法、その後のブラジル版ナショナリズムによる圧迫、そして戦時中の迫害で、より一層強いものとなっていた。 戦中は、国家の背景を失った者の辛さを痛感した。やはり日の丸の下でなければ駄目だ、一旦帰国して、日本軍の占領地へ再移住をし、日の丸の下でやり直す……そういう考え方に傾斜して行った。
 無論、これは日本の勝利を前提としての話であるから、日本には絶対勝って貰わねばならなかったのである。(つづく)