ニッケイ新聞 2013年7月12日
昨年12月10日にサルネイ上院議長により特別式典が開かれ、中国人移民200周年が顕彰された。帝政時代に紅茶生産を目指してリオの農場に400人導入された苦力で、失敗四散した。このように〃コーヒー王国〃で紅茶を作る試みはあったが、ことごとく失敗に終わった。レジストロはラ米初のインド種紅茶の本格的生産地だった▼このように移住先へ新産業を興す壮挙は、日本移民の特色だ。例えば1933年に南米拓殖会社の臼井牧之助が渡伯途上にシンガポール港で南洋種の胡椒苗20本を購入してトメアスーに持参、直営農事試験場で2本だけが発芽し、戦後〃ピメンタ王国〃となった▼同様に上塚司がアマゾン中流のヴィラ・アマゾニアに持ち込んだジュート(黄麻)の種がほぼ全滅する中、唯一発芽した一本からアマゾンの新産業を興した尾山良太らと並ぶ快挙が、レジストロの紅茶だ▼有名な「シャー・ブラス」(山本周作社長)に42年も勤続した金子国栄レジストロ文協会長は、「戦後レジストロの産業の中心は紅茶だった。それに携わった人数はすごい。最盛期六つの銘柄で、それぞれ平均150人の従業員だとして1千家族が生活していた。そこに青芽(茶葉)を出荷する生産者は、一つの工場で平均70家族はいた。6倍したら420家族。その生産者に平均5人のコロノがいたとすると2100家族。2100と420足せば、約2500家族。一家族6人だとすれば大変な人数でしょ」と紅茶産業の裾野の広さを説明する▼「天谷茶」をまず日系社会に広め、そこから一般社会へ。紅茶産業再興もまた新しい形のブラジル社会への貢献ではないか。(深)